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ストレスか

 先日掛かり付けの病院で、一ヶ月続く体調不良の原因を探るべく尿検査と血液検査を受けた。結果は、尿も血液も中性脂肪が大目と血糖値が少し高い位で、異常は見つからなかった。その日肝臓、腎臓のエコー検査もしたが問題はなかった。高校時代の親友と似ている内科医に「コロナワクチンの影響はどうなんですか」と尋ねると、「それは考え難い」という返答であった。「他に思い当たるフシがあるので、もう一度精密な血液検査をしてみましょう」と言った。「甲状腺も分かるのですか」と聞くと、「そうです」と返事。ネットで調べたことを軽く口にしただけのことであった。甲状腺ホルモンの異常(低下・増加)は、体調に影響を及ぼす原因になることは、ネットで簡単にヒットする。しかし、これも老化現象の兆候であって、速度を遅らすことは出来ても、完治は難しいようである。少しづつ、少しづつ、体力は弱り、悪い所が増えてくるのはどうしょうもない。老いと向き合うということは、そういうことである。臓器移植は既にあるが、IPS細胞で新しく作った臓器を、古い臓器と入れ替えることが出来るようになると、どういうことになるのか。今日病院で二回目の血液検査の結果も正常と知らされ一安心。日にち薬で回復するしかないか。話は変わるが、先週後期高齢者の認知症検査を受けた。「年寄りを舐めているのか」という内容と思っていたが、スクリーン画面に示される4つ4セットの計16個の絵を覚え、それを点数とは関係ない数字テストを間に入れ、16全部の絵を答えるテストで、楽器と野菜と果物を間違った。その後の時計と年月日のテストは出来たが総合85点であった。ちなみに家内は100点満点。試験官の話では、80点前後が多いということで、75点以上あれば合格ということだから、体調不良もあり、まず良しとしなければと思い直した。受験者は私と80歳のおじいさんの2人きりであった。そのおじいさんは65点の成績であったと苦笑しながら、私に話した。それでも、試験内容が厳しくなる前日だったこともあり、病院の検査は受けなくて済んだようである。2人で顔も見合わせ、「お互いに、3年後の検査は無理かもしれませね」と笑い合った。そのおじいさん、5年前に連れ合いを無くし、いまは1人暮らしという。その割には明るくて元気であった。「今度は運転試験で会いましょう」と挨拶して別れた。思うに、体調不良は排便障害、コロナ禍、歯痛、腱鞘炎と老化現象が加わったストレスが原因ではないかと思うことにした。(2022・5・17UP)

 

 

ゴールデンウィーク

ゴールデンウィーク、初日は近在の極楽寺山の山頂まで車で行き、睡蓮が浮かび錦鯉が泳ぐ蛇の池周辺を散策し、参道入口にある過去に子宝祈願を叶えてくれた神木にお礼を捧げ、杉の巨木が並ぶ参道を歩み、南に瀬戸の絶景が望める聖武天皇が建立した極楽寺を参拝する。戻り道に野のタンポポの花と山に生えるタラの芽を採取。山の売店で地物野菜を買う。夜はタラの芽を天麩羅にして筍ご飯と一緒に食べた。タンポポの花は家内のお茶用。2日目は芸北にドライブに行き、いつもの町道の法面に生えるワラビを袋一杯採り、深入山麓広場で新緑の景色を愛でながら弁当を食べた。翌日家内は重曹でアク抜きしたワラビの束を近所の友人たちに配った。3日目は昼前に長男が孫2人と来訪。看護士の嫁は午後勤務という。みんなで昼食は食べた後、家内も同行し上の運動公園の遊技場で孫たちを遊ばせた。長男の話では、前日は県北に住む100歳近い嫁の祖父母の実家に行き、家族会を開いたらしい。曾孫に囲まれ「曾おばあちゃん、涙流して喜んでいた」と言う。その夜も、嫁の帰宅が遅いので、家で一緒に焼肉がメインの食事をした。帰り際、家内は自家製のボテの葉餅と夕飯のおかずを詰めた弁当を嫁用に長男に持たした。4日目は近くの広島市植物公園が無料開放で、家内と歩いて大勢で賑わう園内を回り、春の花々を鑑賞。最後の日曜日は、コロナ禍で2年していない福山市の実家の墓参りをしたいという家内に、長男が一緒に行ってくれるというので、家内と長男と孫2人で車で出掛けた。その前に長男が母の日のケーキと菓子を家内にプレゼント。嫁が用意したのだろう。家内の実家で、農業を営む85歳になる義兄夫婦と近所で暮らす息子3人と嫁さんたちと顔を合わせ楽しい時間を過ごしたようであった。土産に30キロ入り玄米2袋とアスパラと鞘豆を頂いて戻る。少々くたびれた様子の長男に、「ありがとう」と労った。孫2人も裏山の長い道を歩いて墓参りしたようであった。そのゴールデンウィークの合間にも、腱鞘炎に罹った私に変わり、花作りや花の世話はもともと家内の仕事だが、それ以外のモッコク、ケヤキ、金木犀、ツツジ、ハナミズキ、モミジ、カシ、椿、山茶花、ツゲの剪定を全部1人でやった。仕事も丁寧で見事。その頑張りにはほとほと感心。家内は3回目のコロナワクチン後発熱と頭痛で2日ほど寝込んだが、元気を取り戻したようである。この1年半、家内は重い帯状疱疹を患ったり、風邪や疲労で体調不良に陥ったり、好不調の波が大きくなった。私も3回目のワクチン以降どうも体調が悪い。手足の腫れ痛みが収まらず、身体に力が入らない。行きつけの内科医院に行き、尿と血液の検査を受けることにした。今週中に結果が出来るが、今はすっきりしたいのが1番である。(2022・5・12UP)

 

 

 

権力について

権力は1人の人間の力だけでは生み出せるものではない。鍋に水を入れて火を付ける、沸点に近づくとブクブクと泡が生じる。その1番大きな泡が権力である。言い換えれば、集合体の1つに過ぎない。しかし、1つの権力には必ず支配者層と既得権益層が生ずる。権力が保有する利権に預かる階級である。権力が強ければ強いほど、利権は拡大する。権力は煽られ、強靭化する。取り分け軍隊組織と警察組織の特権力が強まり、権力と支配者層、既得権益層はトライアングルのように結束する。権力の最大の特徴は、不公平な利権構造である。シビリアンコントロール(文民統制)を基盤とした自由民主主義の国では作り難い構造である。残念ながら、21世紀の今日においても、旧式な権力構造を持った国が存在する。その国の共通点は、支配階級と被支配階級との身分格差が必然的に生まれる。愛国心や同胞愛が鼓舞され、権力に利用される。教育と情報が一元管理され、国民は監視下に置かれ、反逆、異分子は排除、抹殺される。「こんな怖い国は逃げ出したい」と希望する人がいても、自由に出来ない。柵に囲まれた羊である。羊は従順でどんな過酷な条件でも耐えるように飼育される。その意味で、権力は支配階級や既得権益層にとって便利で重宝なものである。崩壊させる方法は、権力を維持する要因を外部の力によって取り除くことである。権力を支える支配階級、既得権益層が揺らぎ始めれば、権力そのものが弱体化する。不幸な末路の権力者の運命の分かれ目は、この弱体化の流れの中にある。綺麗ごとを並べても、人間は出世、保身、利益に影響される。沸騰する湯も、エネルギーの源の火が消えれば、やがて冷めて再び水に還る。人間の歴史は、その繰り返しであった。これからの時代は、歪な権力構造が生まれそうな国は警戒し、早目のその芽を摘み取ることが出来る強力な専門国際機関が必要がある。地球は、国や民族は存在するが誰のものでもない。個人にとって欠け替えのない大事なものである。国同士の自由競争はあってしかるべきであるが、戦争や武力によってそれを侵害し、権力とそれと結ぶ付く支配者層や既得権益層の目的だけで、国を動かすというのは大きな間違いである。それは、過去の数多の悲惨な戦争を通じて分かっているはずである。権力は、場合によっては頼られる存在、崇拝される存在であっても、内実は不合理で不条理なものである。人間の自由、権利、平等の観点から言えば「悪」である。「悪の栄えた試なし」で終わるのが通例である。また、それを願う。(2022・5・10UP)

 

 

 

10のこと

 暇に任せて、「死ぬまでにやりたい10のこと」を面白半分で考えて見た。冒険、旅行、趣味、スポーツ、食事、恋愛、遊び、家事、家族、終活と、10のジャンルごとに捻り出す。冒険は、車で中国大陸に渡り、ヨーロッパの玄関口であるトルコまでのかってのシルクロードを走破したい。草原、砂漠地帯が多いだろうが、地球の広大さと東西文化や民族の血の流れが分かるような気がする。旅行は、国内は沖縄から北海道まで東北と一部北陸を除いて全部行ったが、特にお気に入りは、大分県の九重高原と熊本県の阿蘇山周辺と日本が世界に誇る千年の都京都である。今一度時間を掛けて大自然の素晴らしさと歴史文化を満喫したい。過去ツアーで2度訪れた生誕地の台湾と家内の希望を叶えてハワイにも1度行きたい。これも2度経験したが最後は日本一周の豪華客船によるクルーズ旅行をしたい。あのゴージャスな時間の流れは貴重である。趣味は、鉛筆画でもパステル画でもいいから、生涯の傑作を描き残したい。新聞投稿掲載400件を達成したい(現在約350件)。スポーツは、高原の美しいゴルフ場でセルフを思い切り楽しみたい。食事は、中華の満漢全席の料理を、高級な紹興酒と共に賞味したい。食後は年代もののモルトウイスキー「山崎」の封を切り飲む。恋愛は、子供時代に憧れた彼女と1日デートしたい。他愛ない昔話をするだけで良い。遊びは、沖縄のサンゴ焦の海で、スキューバーダイビングして魚と戯れたい。家事は、古くなった台所のシステム・キッチンを家内の好みに合わして作り変えたい。それと剪定作業が負担になってきた庭の大きな欅と樫の2本を処分したい。家族は、孫たちとの時間を許す限り共有したいし、息子夫婦たちがこれからも仲良く円満に過ごして行くことを願うだけ。終活は、身辺を整理し、余計なものは捨て、形見になるものだけ残し、気楽に旅立てるようにしたい。墓は、海を望める墓地を買っているので、墓の形と予算は決めておくつもり。人間の一生は長いようで短い、短いようで長い。思うようになれば思うようにいかないことも多い。大事なことは健康と夫婦和合である。健康は歳と共も損なわれていく。思い残すことが少なければ少ないほど良い。楽しい思い出は多ければ多いほど良い。その点は我ながら自慢できる。良く遊び、良く働き、良く動いた。人間欲を掻いても仕方がない。自分の身の丈に合った人生が送れたことを感謝すべきであろう。10のこと、半分以上は実現不可能であるが、こんなご時世、想像して楽しむだけでも多少気が紛れる。(2022・5・8UP)

 

 

手と指

左手の手首から甲にかけて腱鞘炎に罹り、普段通りに左手が使えなくなり、改めて両手の重要さが分かった。顔を洗う、着替える、食べる、蓋を開ける、車を運転する、ともかく何をするにしても支障をきたす。慣れれば少しは改善するが、両手が使える場合と比べ、各段と不便である。手と指の大切さを存分に知らされた。両手と左右10本の指が生活を支えていると言っても過言ではない。働き者だけあって、酷使されて続けている状態である。でも、これまで、「今日もよく頑張ってくれたな」と労いの言葉を掛けたことなんか1度もない。今回、その罰が当たったようなものである。両手と指を広げてじっくりと眺めてみる。全体が意思を持った人間のように見える。表情があり性格さえ窺える。指にはそれぞれ名前がついており、その人の特徴を表す指紋さえ備えている。因みに「拇印」は日本人が考え出した習慣で、それが今日の科学捜査の指紋検証に繋がったと言われている。また、占いの手相や手と指を使った影絵や指人形の芝居があるのも分かる。手と指は器用に自在に動く。人間の進化と発展の歴史は、この器用で丈夫な手と指があったからこそと言える。人類の先祖の猿が、外敵から逃れ木の上で生活したことと大いに関係があるだろう。手と指を使って枝から枝に渡り、果実をもぎ取って食べ、枝を集めて寝床を作った。地上の鋭い牙や爪を持つライオンやヒョウ、襲われてもびくともしない巨体を持つゾイやサイ、逃げ足の速いカモシカ、シマウマ、空飛ぶ鳥類が羨ましくて仕方がなかっただろう。その分、弱肉強食の中で生き延びる頭脳が、手と指の血液を通じて育った。とりわけ手と指を巧みに使うサル属が現れ、その知能を活かして、徐々に生活圏を広げ、勢力を延ばしてして行った。古代文明を顧みても、手や指の動きの優れた民族や種族が成し遂げている。ギリシャ文明、ローマ文明、エジブト文明、中国文明の遺跡、芸術、文化がそれを証明している。個々の手と指が連動し、協力し、大きなパワーを生み出した。植民地時代にあった奴隷制度も、言い換えれば強制的に人の手を借りたものである。もっと言えば、アメリカ大陸の発展には、この奴隷制度が深く関わっている。手と指は労働と生産の要であった。それは現在社会でも同じだろう。パソコン、スマホの操作も手と指をこまめに使う。中にはそれで腱鞘炎になる人もいるという。治るには3,6週間掛かるというから、普段からこまめに手と指のケアーをする必要がある。「今日は手と指に感謝する日」があってもいい気がする。(2022・5・4UP)

 

 

毒について

またいつもの暇に任せた妄想話である。先日、徳島県阿南市の沿岸で猛毒を持つ体長約10センチのヒョウモンタコが見つかったというニュースがあった。このタコに噛まれると死亡する怖れがあるという。トラフグと同じ毒を持っているらしい。タコにも毒を持った種類があることを始めて知った。地球上には、毒を持った生物は実に多い。なぜ、毒を身に備えているのか。考えられるのは、まず身を守るため、次に敵を攻撃するため、の両方があるように思う。それぞれが進化の過程において自ら作り出したものである。その遺伝子的、化学的なメカニズムに興味が湧く。外敵と生命の繋がりがベースにあることは確かである。必要のないものを作り出す意味がないからである。当然そこには意思があり、体内のメカニズムが連動し、毒となる物質を作り出したと考えられる。その化学分析や製造過程はどういう仕組みになっているのか。おそらく人間とはまったく違う脳が働くのだろう。毒ヘビや毒カエルはともかく、毒キノコや毒植物には頭さえないが、やはりどこかにあるのだろう。ミクロのウイルスにも、目には見えない頭があると解することも出来る。ワクチンを潜り抜ける変異がそれを示す。地球上の生物の進化は過酷な生存競争があってこそ生じた生理現象と言える。人間社会に置き換えると、戦争もその1つに上げられる。現在でも戦争有用説を唱える人がいる。戦争によって様々な武器,機械、通信などの新しい技術が生まれ、それが人間社会に役立っているのも一方の事実である。米国防省(ペンタゴン)から生まれたインターネットもそうである。他の毒性のある生物と違うところは、戦争も進化していることである。その要因は科学の力である。このまま行けば、最終戦争(ハルマゲドン)まで突き進む怖れさえある。その意味で、地球上で1番毒の強いのは人間である。「毒は毒を持って制す」という言葉がある。核抑止力もそうである。相手が核を使用すれば、こちらも核を使用すると脅し、緊張状態を保つ。小松左京が書いたSF小説「復活の日」は全面核戦争後の悲惨な世界が描かれていた。世界はあらゆる毒に包まれている。それを完全にコントロールすることは難しい。人間の進化は破滅の道を進むのか。安全がたった一人の狂信的な独裁者によって脅かされるとは、人間とは何と愚かな動物であろう。毒は取り除かないといけない。国際法に照らして独裁による暴力を監視する強力な権限を有した国際警察機関でも設けないと、この先地球の安全は守れないだろうと思う。(2022・5・1UP)

 

 

商売の基本

家内が知人から真赤な大きな牡丹の花を貰った。見るからに豪華で美しい。思わず、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」が口から出た。年寄りは何でも思ったことを口にするクセがある。いまどきこんな女性の褒め言葉も、差し障りがあるような気もする。男は勇ましく、女は愛らしくは、今の若い世代にとっては「何それ?」であろう。近年は男女差別、ジェンダーが大きな社会問題になっている。そんな中、全国的に有名な牛丼チェーンの会社の常務取締役が、某大学で開かれた経営講座で、マーケティング戦略として、「田舎から出てきた生娘を牛丼中毒にする」という話をした事が問題になった。それがSNSで拡散し同社にクレームが殺到し、その常務は会社から解任させられる破目になった。中毒はともかく、「シャブ(薬物)漬け戦略」という言葉も使ったことが大失態。こういうのを「言葉が走る」というが、政治家にもよくある話である。場の雰囲気に煽られ、つい余計なことまで喋ってしまう。常務になったぐらいだから、優秀な人材であったはずである。しかし、話した内容を読むと、やはり女性軽視の要素が含まれている。生娘ではなく若者にすれば多少ニュアンスが薄らぐが、今度は「田舎を馬鹿にしているのか」と反発を食らいそうである。どっちにしても、不謹慎な発言であった。最近は企業コンプライアンスという耳慣れない言葉をよく目にする。組織が、関連する法律、政策、および規制を認識しており、それらを順守するための措置を講じていることを確実なものとするための取り組みにおいて達成すべきことの目標を設定することを意味する」という。何もこんな難しい横文字を使わなくても、日本には昔から一般通念として商道徳は根付いていたのではないか。江戸時代の石田梅岩の「商人道」、井原西鶴の「日本永代蔵」、昭和の経営の神様・松下幸之助の「商売心得帖」など数多の手引き書があった。最近の経営者は経営やノウハウは詳しいかもしれないが、基本となる経営哲学が乏しいと感じる。会社側の判断ミス、不祥事、事故が目立つ。つまり目先の利益に捉われ過ぎている感じがする。戦後大企業に成長した、ホンダ、ソニー、京セラ、日本電産などは、創業者の経営哲学が社内に浸透していたように思う。企業にとって利益は大事だが、社会に貢献できる役割が重要である。話が牡丹から横道に逸れたが、家内は友人や知人からよくものを貰う。その分またきちんとお返しもする。商売も付き合いもギブアンドテイクが世の習いであると思う。(2022・4・29UP)

 

 

戦争の歴史

今年2月末に勃発したロシアのウクライナ侵攻による両国の戦争は、一向に止む気配がない。連日報道される戦況を見ると、ウクライナ東部の都市は壊滅状態に近く、難民、死亡者の数も日に日に増加している。当初、ロシア側は1ヶ月程度でウクライナを制圧できると目論んでいたようであるが、西側NATO(北大西洋条約機構)の軍事支援等で、苦戦を強いられているという報道も併せてされている。戦争の中味がロシア対NATOの対立の色合いが濃くなってきている。過去の第一次世界大戦(1914年〜1918年)、第二次世界大戦(1939年〜1945年)を振り返れば、中央同盟国と枢軸国に対する連合国との戦争に拡大した経緯を辿っている。発端は同じく国境と民族が複雑に絡む東ヨーロッパ地域である。第一次大戦時の中央同盟国とはドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国・オスマン帝国・ロシア帝国、第二次大戦時の枢軸国とはドイツ・イタリア・日本の3国同盟の帝国主義国を指す。連合国とは英国、フランス、米国などの主要国を柱とした対抗勢力である。注目すべきは、英国の存在である。第一次も第二次も、英国を主軸とした連合国が最終的に勝利を収めているという事実である。英国は世界を味方に付ける戦術に長けている。情報力、分析力、統治力、外交力、戦闘力で勝っている。大航海時代に一大勢力を誇ったスペイン艦隊を撃破して7つの海を支配した国である。今も英国を宗主国と仰ぐ国は多い。今回も英国が先頭に立って指導力を発揮すれば、NATOも全面協力し、ロシアは苦戦を強いられることになるだろう。戦争は拡大する性格を有するが、ある時期をもって必ず終結する。戦争を支える経済、金融、国情に破綻が生じるからである。ロシアがどこまで耐えられるかも鍵である。「勝てば官軍」は昔の戦であって、今回ロシアが勝利しても、ロシアの世界における信用はガタ落ちし、世界から警戒の目を向けられだろう。今の世界の指導者のほとんどは戦争の体験をしていない世代である。プーチン大統領のいまの心境は分からないが、現実と仮想の違いに苦心している姿も想像できなくはない。確実に言えることは、世界の超大国を誇るロシアが隣国ウクライナを侵略した今回の戦争は、21世紀の大きな黒い記録として残るだろう。世界中の人々が現実にそれを目撃している訳である。プーチン大統領は国の英雄か、独裁者か、はたまた戦争犯罪人か。今後、国連の国際司法裁判所(ICJ)が取り上げるとすれば、どんな判決が下されるか。その結果次第で世界は大きく変わる可能性がある。(2022・4・27UP)

 

 

水は宝

庭の花々に包まれたウッドテラスの長椅子に座り、カップに入れたコーヒーを飲む。コーヒーの香りと液体のやわらかさが鼻腔に伝わり、思わず「美味い」。身体が水分を欲しがっていたこともある。人間を含めた動植物は水なくしては生きられない。改めて水に興味を覚えた。水とは何か、体内でどんな働きをしているのか。ネット社会はありがたい。学術書を読まなくても水の科学の大体が分かる。学校で1番最初に習った化学式は水のHOであった。水素2:酸素1の割合の物質で、温度によって氷、液体、水蒸気に変化し、様々な用途に活かされている。古代ギリシャの哲人は「万物のアルケー(始源)は水」「火・空気・水・土の四元素説」を唱えた。その後科学者によって水は解明された。水は近代科学の発展の切っかけを作った物質と呼ばれている。現在の水の化学反応を利用した水素自動車なんかまさにそうである。生命に関わる水の役割は、「細胞の栄養素を供給し、体温と血液を調整し、間節を滑らかにし、感染を防ぎ、臓器が正しく機能し続けることを助ける。食物が消化管を通って移動し続け、腎臓の健康をサポートする。人体の水分量は、新生児で約80%、成人で60%前後、高齢者で50%である。人体の水のうち40%が細胞内、残り15%が血液、リンパ液など細胞の外にある水である」(ウィキベディア参照)。高齢者の免疫力低下や熱中症に罹り易いのは、水分量とも関係があるのかもしれない。人間食べなくても1ヶ月程度は生きられるが、水がなければたちまち死んでしまう。砂漠の民が駱駝を使うのは、駱駝の瘤に水があるからと聞いたことがある。日本には臨終の死に水、墓石の水かけという風習があるのも頷ける。あの世で水に苦労しないようにという思いやりである。人間の1日の水分の必要摂取量は1.5リッターと言われている。地球上の生命は水中で誕生した。そのメカニズム自体奇蹟に感じる。人類の歴史は水と共に進化し発展してきた。幸い日本は70%の山林を抱え、豊かで美味しい水に恵まれている。石油やガスに勝る天然資源である。地球の水の総量は約14億Km、その97%は海水で、淡水は残り3%である。地球表面の淡水のほとんどは氷河、氷山である。その固体の形で存在している南極とグリーンランで占められている。いつかテレビで北極の流氷をライフル銃で砕いて小さな塊を回収し、「美味しい水」として売るカナダ船の活動を見たことがある。日本でも、美味しい水を求めてミネラルウォーターを飲む人は多い。健康志向と結び付いている。改めて、水は宝と思う。(2022・4.25UP)

 

 

老いと向き合う

 トシを意識しはじめたのは60後半からか。早や今年77だ。体力の衰えは節目、節目でガクッと落ち込むものと分かった。3年前に仕事をリタイヤーしてからは人と会うこともめっきり減り、気持ちの張りも薄れてきたような気がする。老いと真剣に向かい合う時期にきていることは確かだ。私も家内も後期高齢者、運転免許更新に認知症検査を加えて受けなければならなくなった。誕生日が2ヶ月早い家内は先月受けたが、100点満点でパスした。ユーチュブ動画で練習したせいか。主なテストは担当者が言う時間を時計の針で書くものと、花、動物、機具などの絵柄がならべて示され、それを記憶に沿って書き込むというものである。「年寄りを舐めているか」と思う反面、それさえ出来なくなれば確かに運転はヤバいなと思う。それにしても、運転免許更新に運動検査と運転テストと認知症検査の3つが3年ごとに必要になるとは面倒なことか。それに要する時間も費用もバカにならない。自己責任がタテマエの欧米ではありえない話だろう。原因は日本の年寄りによる運転事故の多発である。走っていても、年寄りの危なげな運転が目につく。ノロノロ、フラフラ、先日はスクランブル交差点の真中で止まっている車もいた。進む方向が一瞬分からなくなったのだろう。反対車線走行なんて、思うだけでオソロシイ。私も他人ごとではない。後ろから接近されるケースが増えてきた。ノロいと見られているせいだろう。これからも運転は続けたいと思うが、どうなるか分からない。今のところ目と耳は大丈夫、足腰もしっかりしている、頭もまだボケていない。しかし、急にガクッとくることもありうる。いつかは車を手放す時が来るだろう。今の車はトヨタのオーリスで8年近く乗っており。走行キロは86000を超えている。知り合いに、マツダのデミオを10年以上、走行キロ300000超えても乗り続けている猛者がいる。それに比べればまだ余裕がある。おそらくこれが最後の車になるだろう。家の中を見回しても、家電や道具も古いものばかり。今度買い替えるとなれば最後になるだろう。自分に残された年数は分からないが、毎朝の柔軟体操とスクワット、竹踏み、夕方のウォーキングは続けるつもり。家内が毎朝魔法瓶に入れてくれる日本茶を飲む。おかげで20年以上風邪知らず。61歳の時の大腸がん手術による後遺症(排便障害)さえなければ、もっと自由に動けるのに、それが出来ないのが残念である。何とか小さな生きがいを見出し、慎ましく生きていこうと思う。(2022・4・23UP)

 

 

地球は天国

 家のウッドテラスの長椅子に横たわり、全身に日の光を浴びる。身体の細胞が一斉に活気づく感じがする。理科好きだった中学時代の頭が甦る。地球上に生命が誕生したのは太陽の光と温度(熱)のおかげである。光があっても温度が上がらなければ、生物は生きていけないのは南極、北極を見れば分かる。水も空気も光と温度{熱}があるからこそ循環して活用できる。光と温度は地球にとって1番大切なものである。光は、力学と同様に人類発展の歴史に大きく関わるもので光学と呼ばれた。古代ギリシャ時代のソクラテス、プラトンなどの哲人によって開かれ、中世、近世、現代のフェルマー、ニュートン,アインシュタンなど数多くの科学者の努力によって解明されてきた。当初光は直進的な白色と考えられていたが、屈折も色の変化もあると分かった。光の正体は「光子」で、「波でもあり粒でもある」という不思議な性質を持つ。温度(熱)は、接触による分子の活動によって起こるもので、「原子、分子の乱雑な並進運動の平均値を示している」と言われている。電子レンジの原理が分かり易い。対象物に電磁波を当てると内部の分子が活動し加熱して熱調理が出来る。蛍光灯も熱電子がガラス管内で蒸発している水銀電子に衝突し、その衝突によって水銀電子に紫外線が発生し、それが塗布した蛍光物資に当たり可視化される仕組み。そうして見ると、人間の身体も電子レンジと蛍光灯と似ている。光と温度を身体に当てると、体内の原子、分子が活動し、それが適度な範囲に留まっている限り心地良さを感じる。逆に過ぎれば不快になる。ともあれ、光と温度を地球にもたらしてくれる太陽を神と崇めた古代の人たちは、素直で純粋であった。「もっと光を」はゲーテの最後の言葉と言われているが、生への渇望であったか。その太陽も、核融合反応の終結によって寿命を終える時がやってくる。太陽系は漆黒の闇に包まれる。それは気の遠くなる遥か先の話ではあるが、宇宙時間からすれば一コマかもしれない。漆黒の闇に包まれた地球を訪れる別の惑星の宇宙人も表れないだろう。水の惑星と呼ばれた地球は氷の塊になるだろう。地上に存在する人工物だけが無残な姿を永久に留めるだろう。地球の歴史、文明、文化、科学、記憶も一切無(ゼロ)と化してしまう。「ああ無情!」というしかない。人間同士殺し合っている場合か。天国、地獄と言っている場合か。今、ここにある地球そのものが天国である。我々地球人は、天国で暮らしている。The earth is paradiseA wonderful worldである。その有難味を感じながら生きて行かなければいけないと思う。(2022・4・21UP)

                                                                                                          

 

ロシア文学とプーチン

ロシア人をロシアの古典文学を通して見ると、感情の起伏が激しく、躁鬱入り混じる複雑な人たちに思える。チェーホフの「桜の園」(戯曲)、ドストエフスキーの「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」、トルストイの「戦争と平和」(何度か映画化された)を読む限り、そんな印象である。陰影の濃い一筋縄ではいかない人物描写がロシア文学の芸術性と深く結びついているのかもしれない。葛藤、苦悩、破壊、再生、希望の繰り返しは、ロシアという国の発展のエネルギーとも言える。日本人も多少似たところがあるが、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、谷崎潤一郎、川端康成及び三島由紀夫、大江健三郎などの作品には、西欧式合理主義とはかけ離れた唯心論的な人物や背景が取り入れられている。ロシアと違うのはスケールとパワーで、日本の場合はなかなか破壊から再生、希望までは進展しない。スラブ民族と日本民族は幾分似た血を受け継ぎながらも、決定的に何かが違う。ロシア文学に話を戻すと、物語に登場する人物の性格ははっきりしているケースが多い。強欲、気弱、我儘、愚鈍、勇敢、明晰、純粋が一貫しているので人物像としては捉え易い。ここでプーチン大統領を持ち出すのも変だが、自信家で出世欲の強いタイプは、ロシア文学の中では定番である。掻き回す役柄が多く大体不幸に終わる。強欲で自我が強く我が道を突っ走るから蹉跌が生じてしまう。皮肉にもトルストイの書いた「イワンの馬鹿」という有名な民話がある。自信家のセミョーン、強欲なタラース、頭の鈍いイワンの三兄弟の運命の物語である。成長してセミョーンは軍人、タラースは商人,イワンは農民になる、やがて3人とも国の王様になるが、セミョーン、タラースの国は悪魔の餌食にされてしまう。イワンの国だけは悪魔の罠にかからず、安泰であったという筋書き。教訓として、「働かざるものは食うべからず」の労働の大切さを説いたものと言われている。何となくプーチンがセミョーンとタラースとダブって見える。戦争好きや欲深さは国を滅びし、争わず、欲張らず、愚直に労働に勤しむ国は栄える習わしは、身分制度の厳しい帝政ロシアの時代に、トルストイが夢描いた国の姿だったかどうかは分からないが、元KGB(国家保安委員会)出身のエリートで、優秀なスパイになるのが夢だったというプーチンは国の運営をゲーム感覚で捉えているようにも思える。「罪と罰」で人殺しの罪深さを描いたドストエフスキー、「戦争と平和」で戦争の残酷さと平和の尊さを書いたトルストイは天国から今のロシアをどう見ているだろうか。(2022・4・19UP)

 

(トルストイ)*ウィキペディアより

 

江田島

家の2階の自分の部屋から、正面に広島湾の穏やかな瀬戸の海と江田島の景色が望める。緑豊かな江田島の高い古鷹山から連なる滑らかな稜線が海へと続く。目に見えないけれど、その山並みの南側の江田島湾には、誇り高き日本海軍の歴史を刻んだ元海軍兵学校が現存している。過去に呉市から能美島を経由して車で訪れたことがあった。襟を正して入門。白砂青松の広大な芝生広場,御影石の大講堂、赤レンガの旧館など整然漂う校舎が建ち並び、後方に日本海軍の歴史が学べる教育参考館があった。明治の日露戦争で日本海に侵攻したロシアのバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎元帥など日本海軍の名将たちの輝かしい偉業が学べる。また、ここで学び育ち海の藻と消えて行った多くの若い海軍兵たちの遺品や遺書が展示されているコーナーがあった。中には神風特攻、人間魚雷に身を殉じた若者もいる。万感胸に迫るものがあった。ひたむきに国を愛し、国のため命を落とした純粋で気骨のある青年たちであった。その心意気は、♪貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため♪(同期の桜より)に込められている。平和都市広島は、原爆ドーム、原爆資料館、平和祈念碑のある平和公園が有名だが、一方で戦争の実態は学ぶことの出来る元海軍兵学校の存在も大きいと思われる。原爆の怖さを後世に伝えることは被爆地広島の大きな使命であるが、それだけでは片手落ちのような気もする。戦争は相手から一方的に攻撃してくることもある。国を守るということはどういうことか。それがためには何が必要か。過去の教訓を生かして、幅広く学び取ることも大事である。その意味で現存する元海軍兵学校は生きた教科書になる。同時にこんなことも考える。広島市で1番海側に面する元広島空港飛行場の突端から、等間隔に浮かぶ2、3の小島を繋ぎ江田島まで直接車で渡れる橋を建設するという夢である。江田島を含めたこの一体は景勝地で、海と山の幸にも恵まれている。開発次第で様々な施設、レジャー産業が想定され、東洋のモナコさえ想像出来る程の人気観光地になる可能性を秘めている。平安時代に平清盛はこの海の景色を眺めて極楽浄土の夢を描き、江田島のすぐ西にある宮島に絢爛豪華な厳島神社を建立した。日本三景に選ばれ、世界文化遺産にも認定され、毎年多くの観光客が訪れる。江田島観光が加わればと期待が膨らむ。平和と戦争が繰り返される中で、平和の有り難さを実感出来る地としての条件を満たしているように思う。(2022・4・16UP)

 

(江田島旧海軍兵学校)*公式ページより

 

疑心暗鬼

日本アニメを見て日本に興味を覚え、日本語を学び、ロシアの大学に入り日本の留学生優待制度に応募し、合格して大阪大学に入り、現在は東京大学大学院で学んでいるロシア生まれでロシア育ちのユーチュブネームの安涼奈(Alyona)さんが、いま落ち込んでいる。彼女が上げる旅行や山登の動画が好きで、よく開いて見ているが、2月末にロシアのウクライナ侵略が始まってからは、肩身の狭い様子が画面からも伝わってきて、気の毒なほどである。自国で暮らしている場合は国民の1人に過ぎないが、外国で暮らすとなれば、否が応にも自分のナショナリティ(国籍)やアイデンティティ(出自)を意識せざるを得なくなる状況が生まれる。実際に現地の人が外国人を見る場合、相手のナショナリティ、アイデンティティは気になるものである。安涼奈さんへの書き込みも、ロシア人を非難する声が届いているようである。日本人も、先の戦争中にそういう不条理を経験をしている。日本がハワイの真珠湾米軍基地を奇襲攻撃して米国と戦争を始めた。米国政府は、日系人の破壊とスパイ活動を警戒し、米国各所に設けた日本人強制収容所に送り込み、隔離政策を実施した。米女流作家ダニエル・スティールの「無言の名誉」には、1人の若く清純な日本人女性を通して市民権と財産を没収された日系人の悲惨な収容所生活が生々しく描かれていた。日系人の拘束は戦争が終結するまで続いた。後年米国のレーガン大統領が当時の米国が行った非人道的な行為を謝罪したが、当時収容所で不自由な生活を余儀なくされた16万人に及ぶ日系人の心情はいかばかりであったか。日本人の血が流れていることを悔やんだか、米国政府の非情さに腹を立てたか、早く決着がついて戦争が終結することを願ったか、様々な感情が蠢いたことであろう。ナショナリティやアイデンティティは一面において厄介なものである。人間に帰属本能、防衛本能、闘争本能がある限り、消えて無くなることはないだろう。平和な時は鳴りを潜めているが、戦争になると醜い姿を現してくる。しかも、個人とは全く関係のないところから起こる。安涼奈さんを、日本が大好きな美人で聡明なロシア女性と見る一方で、ロシアが巧妙に送り込んだ日本各地を偵察する秘密諜報員という見方も出来なくはない。見方1つで180度変わる。原因は疑心暗鬼である。今回のロシアとウクライナの戦争も、長年に渡る両国の疑心暗鬼による可能性が高い。正義も民心も疑心暗鬼に惑わされてしまう。人間とは何と脆くて危なげなものであるかと思う。(2022・4・13UP)

 

 

古の教え

 街中で古本屋があった時分、いつか読もうと買い集めた本がある。井上靖の「孔子」もそうである。孔子一門の下僕として仕えた男を架空に設定し、孔子と高弟たち亡き後に、世捨人として奥山に暮らす男の陋屋に各地から孔子研究者たちが集まり、孔子が遺した言葉から師の思想や人間を学ぶという物語を会話形式で描いた本である。儒教の四書五経の中で、孔子の教えを説いた「論語」は特に馴染み深いものである。誰しもことわざのいくつかは覚えがあるはず。論語の教えは5つの漢字で示される。これを5常というが、仁・義・礼・智・信である。私流に解釈すれば、仁は大きな愛とその規約、義は勇気もって物事を正す行為、礼は人と快く交際する司法、智は正しく生きる知恵と教養、信は人間の信用を重んじる心である。現役で働いていた頃、五常を書いた紙を名刺入れに入れ、時々読んでその意味を噛みしめた。とりわけ商売する上で「信」を大事にした。信は人偏に言葉の言を付けたもので、人間は嘘をついてはいけない、真実を話さないといけないという教え。人間社会は「信なくば立たず」で信用を失ったらお終いである。孔子は広い心を備え、岩の信念を貫き、理性を重んじた人である。孔子と対照的な哲人に老子がいたが、老子の教えは、人間が自然と共に収得した知恵を活かす処世術を説いた人である。孔子にはない人間臭さがあり、実用の意味を含んでいる。儒教に対し道教と呼ばれた。孔子も老子も、紀元前500年代の戦乱渦巻く春秋時代に生きた哲人。日本では弥生時代に当たるが、既に中国ではこのような偉大な哲人が存在していたことは特筆すべき。四書五経の教えは日本でも古くから貴族、武士、平民まで幅広く浸透していた。余談になるが昨年のNHK大河ドラマ「晴天に衝け」の主人公の渋沢栄一の座右の書は論語であった。日本の資本主義の父を称されるが、その行動指針の中には常に論語の教えがあったと言われている。経営の神様と呼ばれた松下幸之助、再建の名人と呼ばれた土光敏夫は、二宮尊徳の教えを説いた「報徳記」から強い影響を受けたと述べ推奨している。二宮尊徳の心髄にあるものは、困窮生活の中から学び取った四書五経の教えであった。有名な薪を背負った少年像の二宮尊徳(幼名金次郎)が手にしている本は「大学」「論語」と言われている。人間は弱いものである。苦悩、挫折は付き物である。心の支えを必要とする。聖書、コーラン、仏典、儒教はそのために生まれた教義であろう。世情不安な現在、温故知新で古の教えに触れることは良いことだと思う。(2022・4・11UP)

 

 

夫婦喧嘩

生まれ育った家が商家と農家の違いがあるが、年齢も体験も差はなく、考え方も価値観も似たもの夫婦だから、ギャップが原因で喧嘩をしたことはない。たまにあったとしても感情の縺れで、1日2日で消えてしまう。家内は「お父さんのいいところは後を引かないことね」と言う。つまり根が単純なのである。子供時代に、両親の喧嘩は2、3度目撃したことがある。大抵は母のヒステリー(欲求不満)が原因で、のんびりおっとりした父の態度にカリカリし、母が食って掛かるという風に見えた。父も本気に相手にはせず母を鎮める風であった。なぜ、こんな話を持ち出したかと言えば、先日わが家に来た早々に4才の孫の女の子が、「おばあちゃん、このあいだパパとママが喧嘩したの。わたし見たのよ」という話をこと細かく報告したからである。なんでも、頼んでいた洗濯物をパパが忘れたことにママが腹を立て起きた喧嘩のようであった。家内が後で息子にその話をすると、「へぇそんなことあったけ?、覚えていないな」言う程度のものであるが、孫の女の子にとってはショックだったようである。息子ものんびりおっとりとしたところがあり、看護士の嫁さんは何事もきちっとしないと気が済まないタイプ。その意味で吊り合いのとれた夫婦である。嫁さんの母親もそんな印象だから、親子は似ているのだろう。ついでに孫の女の子が、「向こうのおばあちゃんとおじちゃんもよく喧嘩するよ」と言うから、子供の口は防ぎようがない(苦笑)。夫婦喧嘩は女性が強い方が起こりやすいのかもしれない。夫婦喧嘩は犬も食わない、むしろ喧嘩する方が仲が良いという見方もできる。芸能界でも評判のおしどり夫婦が突如離婚というニュースは珍しくはない。片方の我慢が切れたということだろう。「仮面の夫婦」であった訳である。一時期「定年離婚」が話題になったが、これもその類であろう。父母の喧嘩を目撃した私に父親が言い訳のようにこんな話をした。「女性はヒスを起こすもんだ。それに夫婦も所詮は他人同士、喧嘩が起きるのは仕方がないことなんだ」と。夫唱婦随、亭主関白が普通の時代であったが、父はクールであったことが思い出される。昔観た森繁久弥、淡島千景が夫婦を演じた映画「夫婦善哉」は、ぼんぼん育ちの夫としっかり者の妻の痴話喧嘩の絶えない切なくやるせない夫婦像が描かれていたが、最後は丸く収まる物語であった。縁で結ばれた仲、それぞれが自分たちの夫婦像を作り上げるしかない。大事なことは、互いの人格を認め合うことと協力し合うことではないだろうか。結婚50年の金婚式を前にしてそう思う。(2022・4・8UP)

 

 

独裁者

 美空ひばりの後年のヒット曲に「愛燦燦」という歌がある。中に「人生って、悲しいものですね」というフレーズがある。作詞は小椋佳で、言葉の使い方が巧い人である。「悲しいものですね」の呼びかけに、「そうですね」という頷きがセットになっている。人生は楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、苦しいことも、糾える縄の如し。この世に生まれた限りは、色々な経験を積み重ねながら生きて行く。そこから共感も知恵も生まれ、心を察することも出来る。人の心を解せない人は、経験値が浅いとも言える。そういう人が上に立った場合、下は苦労する。裸の王様に従う家臣の如く。今のロシアのプーチン大統領は、多分にそういう面がある。目標、野心のためならウクライナ国民の悲劇などは眼中にない。自分に向けられる非難も意に解さない。逆に言えば、だから独裁者なるものが世に誕生するのかもしれない。ナポレオンのような英雄もいれば、毛沢東のような国父もいれば、虐殺を行ったスターリン、ムッソリーニ、ヒットラーなどの独裁者もいる。その背景には力という魔力が潜む。独裁者とは力を支配するために存在する異分子である。人間は力を欲しがり、崇拝し、従う習性がある。国中にフラストレーションが溜まると力に頼る空気が生まれる。民間の調査機関によると、ウクライナ侵略を開始したプーチン大統領の国民支持率は83%に急上昇したと報じられているが、これはロシア国民がプーチン大統領の力を誇示するカリスマ性に期待を寄せるからである。プロパガンダ(宣伝)によって感覚が麻痺しているからである。思い起こすには、英国の名宰相ウィンストン・チャーチルの言葉である。「民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話ではあるが」。民主主義によって政治の暴走、独裁、更には国の破滅を防ぐという意味において、最善の形態と述べている。民主主義は歴史的に多くの悲惨な戦争を経験してきた英国だから編み出したと言える。上が偉いというより国民の成熟度が高いのである。民主主義とは政治と国民の力の分かち合いであるが、力はコントロールされなければいけないという教訓でもある。戦前の日本も天皇の統帥権を利用した軍閥の暴走により国が破綻に陥った。聖徳太子の時代より天皇に権威は持たしても権力は持たせない形態は日本人の知恵であったが、軍閥がこの禁を破ったのである。民主主義、インターネットの時代になっても、未だプーチン大統領のような古いタイプの独裁者が誕生するとは、人間って、悲しいものですね。(2022・4・6UP)

 

 

住宅政策

 令和4年度の全国の地価が国土交通省から公示された。その新聞記事によると、全国的に都市中心部の地価が再び上昇に転じている。これは未だ都市1極集中の現象を物語る。つまり各都市部のマンション需要が地価上昇の大きな要因と思われる。地価査定は一面的な側面がある。全国不動産協会と不動産鑑定士協会がまとめた土地取引事例を参考にしているからである。特に都市部の市街化区域の売却件数は少ない上に、マンションの建設条件に適合する用地は希少で、高くてもマンション業者は手に入れようとする。需給バランスがそれを補うからである。不況にも拘らず、マンションの分譲価格が年々上昇するのはマンション用地の希少性であって、土地取引事例による査定は実際からは少しずれていると言わざるを得ない。逆に国税庁が公表する路線価格は実勢より低い傾向がある。地価は需給バランスで動くことは確かであるが、実勢価格を決めるのはなかなか難しい作業である。わが国で土地ブームが起き始めたのは、高度経済成長期の昭和30年代後半からであるが、その時分はまだ分譲マンションの件数は少なく、公共交通を利用とした郊外の宅地開発がメーンで、戸建住宅が主であった。デベロッパー(開発会社)が郊外の安い山林、原野、農地を買収し、住宅団地を建設し、それを分譲販売した。そういう形態をスピロール現象(乱開発)と呼んだが、車社会の進展もあって全体からすれば都市と郊外のバランスが取れていた。やがて宅地開発を規制する厳しい法律が出来、宅地供給に歯止めが掛かった。その不足を補うように、都市部において分譲マンションが増え始めた。2LDK,3LDKのコンクリートの狭い居住空間に、便利で快適な都市ライフを演出し、若い需要を呼び込んだ。マンションの不動産価値は、土地は共有持ち分に細分化され、共有部分の税負担、維持管理費、修繕積立費、駐車料金が加算され、戸建住宅と比べて相対的に低い。便利、快適がそれを補うとしても、長い目で見ると資産価値は低下するのは必定である。むしろ都市部で生活するのなら、賃貸マンションの方が得という計算も成り立つ。戸建住宅の場合、建物が老朽化すれば建て替えれば済むが、多くの所有者のいる分譲マンションの場合は簡単には行かない。その結果として、将来都市の空洞化、もっと悪く言えばスラム化を招く恐れもある。東京、大阪のような大都市圏は仕方がない面もあるが、地方都市においても分譲マンションがブームというのは余り好ましい傾向とは言えない。いつか場当たり的な住宅政策のツケが回ってくると思う。(2022・4・3UP)

 

 

 

憎しみからは何も生まれない

1月いぬる2月逃げる3月去る、と言われるほど、真冬から早春の3ヶ月は過ぎるのが早い。春を待ちわびる気持ちのせいだろう。しかし、世情はコロナ禍の波、ロシアのウクライナ軍事侵略、ガソリン代、食料品、公共料金の値上げ、老いの衰えも加わり、春の浮いた気分にはなかなかなれない。こんな時代が来るなんて想像もしていなかった。仏教の教えの中に、人間は四苦八苦の悩みを抱えているとある。生老病死の四苦と、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦を加え八苦。人間が生きていく上で避けられない宿業である。何の心配もない平和で豊かな生活を送ること自体珍しいことで、世の中そんな甘いものではないと諭している。名前は忘れたが、外国の社会学者が「日本人は苦痛心理を持っている」と書いていたのを思い出す。苦痛心理とは、いつ不幸に見舞われるか分からないという不安な心理状態を指す。自然災害の多さから身に付いた日本人特有の気性と分析している。同時にそれは、耐える力、頑張る力、協力する力に繋がると好意的に書かれていた。災難や不幸を「起きたものは仕方がない」と素直に受け止め、次に向けて努力をする姿勢である。大平洋戦争末期に全国の都市は大空襲で焼け野原、インフラは破壊され、広島、長崎に原爆投下された日本は再起不能とまで言われたが、10年足らずで「もはや戦後は終わった」と言い切るほどの復興を成し遂げた。神戸淡路大震災も、今や何事もなかったという様子を示している。東北大震災も原発事故の残骸以外は、大津波に遭った町も徐々に甦りつつある。最近ロシアのプーチン大統領は、テレビ演説の中で、西側諸国と連携してロシアの制裁に加わる日本に対して、「広島、長崎に原爆を落とされた日本が西側と組むのは変だ」という内容の言葉を発していたが、日本人の苦痛心理から言えば、戦争も災害と同じように捉えているのかもしれない。沖縄を除いて激しい地上戦がなかったことも、敵に対する憎しみを薄くした面があるにしても、統治した連合軍に対する協力的な態度、対応はやはり日本人独自のものであっただろう。融通無碍に憎しみを復興と平和のエネルギーに転嫁することで、世界有数の経済大国に伸し上がることが出来た。憎しみからは何も生まれない。プーチン大統領が押し進める「力の論理」の行く突く先は、憎しみの増幅しかない。柔道家を自認するプーチン大統領は、「礼に始まり礼に終わる」「柔よく剛を制する」は知らぬはずはなかろう。時代錯誤な指導者を持つロシア国民の不幸は続くと思う。(2022・4・1UP)

 

 

 

アカデミー賞

 濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が今年のアカデミー国際長編賞を受賞した。日本映画では〔おくりびと〕以来13年目の快挙である。「ドライブ・マイ・カー」は村上春樹の小編を脚本にした映画というのも好評価に繋がったのだろう。村上春樹の小編はユニークで面白いものが多い。映画から火が点いて今年のノーベル文学賞の可能性もあるかも。ロケ地に広島市内と呉市周辺の島が選ばれたというのも気に入った。4年前の早春に家内と河津桜の見物をかねて訪れたことがある。下蒲刈島から大崎下島まで7つの島と7つの橋で繋がった「安芸灘とびしま街道」は美しい瀬戸内の景色が堪能できる観光コースである。各特色のある橋の姿、段々畑に柑橘類の黄色い実が実り、伝統文化の展示館、緑の多島美と青い海と白い砂浜、古い街並みの残る御手洗地区まで足を延ばすことが出来て大満足であった(P47)。映画で主役を演じる西島秀俊の陰気な風貌も混沌した時代に合致している。映画は脚本と俳優でほぼ決まる。私の予想では、心の喪失と再生という難解なテーマらしいので作品賞は無理で、カンヌ映画賞と同様に脚本賞が1番近いと思っていた。今回はステーブン・スピルバーグ監督の「ウエスト・サイド・ストーリー」もノミネートされていた。50年以上前に製作された映画のリメイクだが、スピルバーグ監督の特色がどこに表れているのか興味がある。シェックスピアの「ロミオとジュルエット」をテーマにした作品である。高校時代の冬休みに、仲間3人と福岡県小倉市にある巨大な70mスクリーンを備えた映画館まで電車に乗って観に行った。最初から最後まで圧倒され、観終えた後もしばらくは互に口が利けなかった覚えがある。主役のナタリーウッドの可憐な美しさに魅了され、兄役のジョージ・チャキリスの恰好良さに見惚れた。踊りも音楽も素晴らしかった。それまでの映画の常識や型を打ち破るものであった。アメリカ映画の黄金期で、70mの大スクリーンで原色鮮やかに描き出される作品の数々、「十戒」「ベンハー」「史上最大の作戦」「アラビヤのロレンス」「西部開拓史」「2001年宇宙の旅」「サンウンド・オブ・ミュージュック」、いずれも圧倒的な迫力があった。映画を通じて、「アメリカすごい!」を印象づけた。あれから半世紀以上、映画を取り巻く環境は変わった。巨匠スピルバーグ監督が「ウエスト・サイド・ストーリー」を製作した理由は何か。「映画の夢を再び」の思いがあったに違いない。ともあれ、「おくりびと」と同様に日本の美しい自然の景色を取り入れた映画がオスカーを獲ったのが嬉しい。(2022・3・30UP)

 

 

ゴルフ談義

 今年の日本女子プロゴルフトーナメントが3月3日に開幕した。初戦のダイキン・オーキンドでは、ジャンボこと尾崎将司の門下生の西郷真央が、見事初優勝を飾った。翌週の明治安田生命では台湾のサンペイインがこれも念願のプロ初優勝を果たした。先週のTポイント・ENEOSでは堀琴音が、昨年に続いて2勝目の栄誉に輝いた。堀琴音は、前々からファンで、ことのほか嬉しかった。彼女の魅力は、愛らしい上品な容姿もさることながら、淡々としたプレースタイルである。他の選手とは次元の違う雰囲気を醸し出している。「もっとガツガツしろ」と思うこともあったが、相手に逆らわない自然流が彼女の持ち味である。2年前のシード落ちからカムバックなど芯の強さを持っている。ユーチュウブで彼女の練習を見ても、基本を崩さず真正面から取り組んでいる様子が好感持てる。持ち球をフェードに変えたのも、無理を嫌ったからだろう。距離よりフェアーウェキープ率を大事にし、2打目で確実にグリーンを捉え、得意なパットでパーを拾い、バーディを奪う。ボギーが少ないのが特徴で、ベストを尽くしそれ以上スコアーの良い選手がいれば仕方がない、そんな試合運びである。長く熾烈なトーナメントを戦って行く上で、これもありである。対照的なのは西郷真央である。毎回のように優勝戦線に加わる。20歳になったばかりの可愛い小柄な選手だが、豊富な練習量から鍛え上げられたゴルフの技は卓越したものがある。タフでプレーも堂々とし、ベテランと並んでも引けを取らない。弱点があるとすればアプローチとパット。これは経験を積めば克服できることであり、彼女が尊敬する不動裕理と同様に優勝回数を増やすことが出来る選手である。同じジャンボの門下生に原英莉花という優れた大型選手がいるが、出来にバラつきがあり、安定面でやや不安がある。この他にジャンボの門下生に佐久間朱莉、小林夢果もいて、ジャンボの門下生から次々に有望選手が出てきそうな感じである。今の所目立った若手の男子選手は出ていないようだが、やがて出てくるはずである。これは女子と男子のゴルフ環境の違いもあるのだろう。それにしても、私財を投じて立派なゴルフ練習施設を作り、若手選手の育成に力を入れているジャンボの情熱には頭が下がる。ジャンボはあのふてぶてしい態度とは裏腹にナイーブで、仏教信仰の厚い人である。ゴルフ界の貢献のつもりで実施しているのではないか。私より1歳下だが、剣一筋で道を究めた宮本武蔵と重なって見える。一芸に秀でた人は、やはりどこか違うと思う。(2022・3・27UP)

 

 

O(酸素)

 春うらら、リビング続きのウッドテラスの布製のリクライニングチェアーに座る。朝のやわらかな日差しと、冷気を少し含んだ風が心地よい。足元にはピンクの桜草が春の訪れを喜んで咲いている。目を閉じ、胸一杯に新鮮な空気を吸ってみる。それが肺に満たされ、体中に染みわたる感覚を楽しむ。空気の主な成分は酸素、元素記号で「O」である。このOによって人間は生かされている。Oを取り入れないと忽ち死んでしまう。Oの不思議さを思う。地球上生命の誕生にOの存在が大きく関わる。Oは人体の中でどのような働きがあるのか。エネルギーの燃焼と関係するのは分かるが、詳しいことは知らない。改めてOの働きをネットで調べることにした。まずは学術記事で、「肺から吸い込んだ酸素は、ヘモグロビンの鉄分と結びつき、血液によって全身の細胞にくまなく運搬されます。 そして細胞内のミトコンドリアで体内に摂取された糖や脂肪、タンパク質などの栄養素が燃焼(代謝)され、ATPを生成します。 酸素がなければATPが生み出されず、人は生きることができません」とあった。ATP(アデノシン三リン酸)とは何ぞや?。Wikiの解説によると、「ATPは真核生物や真正細菌など、既知の地球生物の全ての細胞が利用している解糖系でも産生される物質であるため、地球上の生物の体内に広く分布する。生体内では、リン酸1分子、または、リン酸2分子が離れたり結合したりする事で、エネルギーの放出・貯蔵を行う。なお例えば、糖に限らず、真核生物が脂肪酸やアミノ酸などをエネルギーとして利用する際も、例えば、一部はGTPに変換されて、そのままGTPが別の用途に用いられる場合など例外はあるものの、主にATPに変換してからエネルギーとして利用し、色々な用途に活用している。これらの理由ため、既知の地球生物の各細胞には普遍的にATPが存在する。 なお、しばしば地球生物の細胞は、ATPを経由して物質のエネルギーを利用しているため、ATPは「生体のエネルギー通貨」とも形容される」と説明されていた。 ピンとは来ないが、Oは体内の栄養素を活かし生命活動をするために絶対不可欠な元素であることは分かる。何気なく空気を吸っているが、目に見えないところでOはひたすら頑張っている訳である。有酸素運動はOを多く体内に取り入れATPを作り出す効果もあるようである。坐禅の効能も結局は呼吸法である。コロナ禍のマスク着用でOの吸収率が減っているのではないか。今日夕方のウォーキングは坂道コースを選んでマスクを口からずらしてしようと思う(微笑)。(2022・3・25UP)

 

 

クルーズ旅行

新型コロナウイルスの流行で困っている商売は沢山あるが、豪華客船を所有してクルーズ旅行を運営している会社も憂き目に遭っているだろう。航行して儲ける商売だから、停泊、維持管理だけで莫大な経費が嵩むはずである。世界の平和が保たれてこそ成り立つ商売である。68歳と70歳の時に、夫婦で豪華船のクルーズ旅行を体験した。初回はサンプリセス号で神戸港、台湾、石垣島、沖縄、奄美を巡る9日間(P26)、2回目は福岡国際空港を飛び立ち、サファイアプリセス号でシンガポール、ペナン島、ランカウイ島、マレーシアの首都を巡る5日間のクルーズ旅行(P34)。楽しい思い出が詰まっているが、クルーズ旅行らしさをより満喫したのは、2回目である。2000人近い乗客のほんどが外国人で、日本人客はわずか20組程度で、国際色豊かであった。姿も衣装も言語もまちまち、地球を凝縮した世界にいるような印象を受けた。寄港地もアジアテイストに溢れていた。こういう体験はクルーズ旅行でなければ味わえないものであったし、「平和っていいな」と実感した。船上で5日間行動を共にする訳だから、それぞれの習慣も習性も見えてくる。欧米人は堂々として、時間を有効に使い、積極的にイベントに参加し、クルーズを思いきり楽しんでいる様子、インド、イスラム国の人々は、自分のカラーを大切にする姿勢を崩さない様子、中国、韓国の人々は家族、仲間と行動し、居心地の良い空間を作り上げている様子。バラバラなのは日本人、それぞれが勝手に地味に動き回っている様子。社交性にやや難がある。豪華船によるクルーズ旅行の起源は、英国、欧州と米国を結ぶ大西洋航路が開かれたのが最初で、各船会社が大型船を建造し、それが進化、発展したものと思われる。新大陸に渡る移民たちを乗せたプリスマス号から大型豪華船の時間の流れである。クルーズ旅行を楽しむ術は欧米人に適わないのも無理もない。米映画「ポセイドンアドベンチャー」「タイタニック」、英国の推理小説の名作「偽のデュ―警部」にはそんな豪華船内の様子が詳しく描かれていた。豪華な食事、ダンス、カジノ、劇場ショー、アトラクション、ショツプ、映画、図書、画廊、サロン、スポーツ、トレーニング、プール、ジャグジー、エステなど、娯楽のエッセンスが詰まっている。人間は楽しむために生まれけりである。帰港地に戻った時は、無事航海を終えた安堵と下船したくない気分の半々であった。生きている間に、もう一度クルーズ旅行がしてみたいと思う。さて体が持つかどうか、それが問題である。(2022・3・23UP)

 

(プリンセス号)より

 

天秤の原理

ロシアのウクライナ軍事侵攻が始まった時に開かれた国連安全保障会議で、ケニアの国連大使が演説したメッセージが頭に残る。意訳すれば、アフリカは植民地から解放された時、欧州の主要国が勝手に国境を作った。そんな苦難の歴史を克服し、アフリカ諸国は協調しながら発展に努めている。それに比べて帝国主義を呼び覚ますようなロシアの軍事行動はどうか、という非難が込められていた。その非難決議は常任理事国のロシアによって否決された。現在の世界の不安定さは、米国、ロシア、中国、インドの広大な国土と人口を抱える国が生み出しているとも言える。大国意識を剥き出しに、それぞれ核兵器を保有し、睨みを利かし合っているのが実状である。安定は均衡で成り立つという天秤の原理は正しい。長い歴史の中で戦争を繰り返してきた欧州諸国がEU(欧州共同体)を創設した背景には、国境、民族、文化の壁を無くし、運命共同体でやって行こうという斬新な試みであった。自由通行で国境の概念も変わってくる。憲法もEU憲章の下に置かれる。貨幣経済もユーロに統一される。アジアにおいてもEUのような共同体が出来ないものか。戦前日本は欧米列強に対抗する目的で「大東亜共栄圏構想」を打ち立て、各アジア諸国を統一する運動を行ったが、形だけに終わった。当時のアジアとEUとでは比較できないほどレベル差があったからである。今後も、国連機構の改革と過去の苦い経験を活かした人間の知恵は重要である。先頃ユーチュウブの動画で、ウクライナ出身女性で現在日本で音楽活動しているナターシャ・グジーの歌と演奏を聴いた。大国ロシアに翻弄されるウクライナ民族の深い悲しみと強い平和の願いが滲み出ている。日本の「故郷」「防人の詩」「翼をください」も胸にじ〜んと来る。彼女の父親はチェリノブイリ原子力発電所の作業員で、原発事故に見舞われ家族は不幸のどん底を味わった。福島第一原発が起きた時、彼女はいち早く救済のための音楽活動をした人でもある。ハープと琵琶をミックスしたような民族楽器バンドゥーラで、それを奏でながら歌う彼女の透き通る声は、音楽が持つ価値を大きく伝えている。現在の日本を含めたアジアの自由諸国はアメリカに頼るしか得ないだろう。アメリカの大きな傘に入れてもらうしかない。それも知恵である。将来的には、ロシアが今回の戦争で弱体化し分裂し、中国の一党独裁の共産党政権が崩壊すれば良いのだが、そう簡単に行きそうもない。平和を導く鍵は国連の強化と平和国家の連帯と情報交流であると思う。(2022・3・21UP)

 

 

やがて桜

花粉と黄砂の入り混じった空気の中にも、春が感じられる平日の昼下がり、車で10分程にある運動公園の桜の開花状況を見に,久方ぶりに運動公園に足を運んだ。瀬戸海の景色が望める高台にある。到着するや、私と年恰好の似た男連が多く目に付いた。コロナ禍の運動不足の解消と、家で気詰まりを感じ、集まった連中であることは、雰囲気から察せられる。折角だから楕円形の広いグランドを1周する遊歩道を歩くことにした。前後間隔空けて黙々と歩いている色褪せたゴルフ帽に地味な服装の男連の姿は、少々異様に映る。私もその仲間入りしたが、背中を立てて歩いていてもつい背中が丸くなり、目線も下に向いてしまう。最近は体重が増え、腹に脂肪が付き、重力の関係でそうなってしまうのか。昔は腰の曲がったお年寄りの姿はよく見かけたものである。中に直角に曲がった人もいて、まともに前に歩けるのか心配したほどである。時々腰を伸ばし、前を確認してまた地面に目を落としトコトコと歩くから大丈夫であったが、車が少ない時分であったから良かったが、今の公道では危なくてとても歩けないだろう。過激な労働と栄養状態の悪さから、歳を取ると腰が曲がるのは普通の症状に思われた時代であった。その点、前屈みになる程度だから良しとしよう。肝腎の遊歩道沿いに植えられているソメイヨシノは蕾がやや膨らんだ状態であった。それでも染め染し乙女のような甘い香りを木全体から放ち始めていた。これから満開までの数週間、桜にとって、1年1度の晴れ舞台である。例えれば、京都祇園の舞妓さんの春の都踊りの華やかさである。修行と稽古積んだ小娘たちが、艶やかな黒髪を結い、桜の簪を飾り、色鮮やかな振り袖着物とだらりの帯を締め、舞台中央に並んで「みなさま、よろしゅうおたのもうします」、そんな浮き浮き感が漂う。違うか。日本で縁起の良い植物として、松竹梅が選ばれ、桜は外されている。「散る」というイメージが強いからであろう。潔い武士の魂と重ね合わされた。江田島の海軍兵学校の軍歌「同期の桜」である。♪咲いた花なら 散るのは覚悟、みごと散りましょ 国のため。この明と暗のイメージが桜の魅力でもある。日本には桜名所が全国各地に存在するが、個人個人で1番目に残る桜があるらしく、私の場合は子供の頃に花見弁当を携え家族で眺めた山口県下関市の功山寺の老木の桜と広島県の山里の園に強い匂いを放って誇り高く咲く1本の山桜である。やがて桜シーズン到来、しばしコロナとウクライナとロシアの戦争の憂さを忘れよう。(2022・3・16UP)

 

 

アジア目線

国防上重要な兄弟国のウクライナまでNATO加盟すれば、ロシアとして恐怖に感じるのも分かる。黒海に面するクリミア半島を併合し、ウクライナ政府に圧力を掛け、NATO加盟にストップを掛ける今回のロシアの軍事侵略であることも読み取れる。重油と天然ガスと農業に頼るロシアの脆弱な経済基盤から、ウクライナの優れた先端技術産業を傘下に収めたい狙いもあるだろう。今回のロシアのウクライナ侵略は決して容認できるものではないが、第二次世界大戦終結時に行われた米英ソの首脳(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)のヤルタ会談における自由主義と社会主義の対立が、長い燻り期間を経て、21世紀の現在に露に表面化したと言える。3首脳は主義体制を超えて戦争を避ける知恵を持っていた。それが冷戦構造というバランスであった。ソ連が戦勝国入りした経緯は、米国を主力した連合軍がドイツ軍に総攻撃を開始し、日独伊の軍事同盟の破綻と日本敗戦濃厚と見たソ連が、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州、北方領土への侵攻の結果であった。戦争に正義もモラルもない。あるのは「勝てば官軍」の力の論理である。第二次大戦の国別戦死者の数を見ると圧倒的にソ連が多く、戦勝国と呼べない惨憺たる状態であった。その荒廃からスターリン独裁の恐怖政冶が続くが、後に冷戦終結1989年に自国の防衛システムのワルシャワ条約機構(WTO)を廃止した。アメリカを中心としたNATO側は防衛システムを存続させている。今のロシアからすれば、「自分たちは捨てたのに、約束が違う」と不信感を強めるのも無理もない。NATO側からすれば、軍縮合意にも関わらず最新兵器の開発を進めるロシアを警戒し、先延ばし戦略を取っていると考えられる。アジア目線で見れば、これは同根異種の白人同士の権力争い。ロシア人の多くはスラブ民族に属し、歴史的に白人の中で低く見られている。西側にコンプレックスも抱えている。同時に対立を生む要因にもなる。再びアジア目線で言えば、白人同士の対立は対岸の火事という冷めた一面はある。もし広大なロシアがNATO側に加盟すれば、南側に広く分布する中東、アジア諸国は脅威に晒される。白人と有色人種の色分けがより鮮明化する。白人至上主義が更に勢いを増すのは必定。これはヘーゲル哲学が唱えた支配の拡大と確立と奇しくも重なる。顧みると、古代ローマ帝国がキリスト教国奪回のために異教徒征伐に派遣した十字軍の長い戦争の歴史がある。世紀を超えてもその動きが続いていると思われ、世界は予断を許せない状況である。老人の杞憂であればいいが。(2022・3・14UP)

 

 

受験

新聞に公立高校の入試問題が記載されていた。国語、社会、英語は何とか解く気になるが、数学、理科になると完全スルー。私が国立大学の受験に失敗したのも、理系に弱かったのが原因であった。中学の頃までは悪くはなかったが、高校の微分、積分は苦手であった。自分の長男と次男は、私と違って理系が得意である。二人とも現役で国立大学に合格したが、やはり理系の点数が合否を分けたようである。長男の場合、共通一次の出来からワンランク下の国立大学を第一志望にするか迷っていたが、担任教師の「数学が強いので、上のランクを」と勧められ無事合格。本人も「数学が良かったからだろう」と述べていた。最初から超難関大学1本に絞っていた次男の時は、「数学2問ミスした」と落胆していたが、控え目に言うのはこの子のクセで、こちらも見事合格。受験は一発勝負に見えて、総合学力が勝敗を分けることを改めて感じた。余り勉強が好きでなかった私にとって、「受験」は苦い思い出と重なる。現役大学受験に失敗し、東京に出て新聞配達をしながら自習で勉強し、翌年東京六大学の私立大学に合格したが、高い受験料を惜しんで第一志望を諦め、確実性のある方を選んだという後悔が残った。第一志望の大学を受験し入っていたら、その後の人生の進路は違ったものになったかもしれない。受験によって人生が決まるということはありうるからである。だからどの親も必死になる。教育ママ、ママゴンという言葉も生まれる。「お受験」なんていう言葉も流行った。東京の名門幼稚園の受験で用いられたようであるが、子供の成績だけでなく、両親の面接試験まであるというから恐れ入る。中には有名芸能人の夫婦の子供もいたいりして、嬉しげに親子並んだ合格記念の写真まで報道されていた。受験は数ある人生の競争の中の一コマに過ぎない。その比重は大きいとしても、大事なのは卒業してからの実力である。学歴と頭脳が、社会や自分のために役立つことが大事。一時期「燃え尽き症候群」が問題になったことがあった。受験戦争に精魂使い果たし、その上を目指す気力が失われた状態を示す。超有名大学の学生に多く見られる傾向のようである。ともあれ、寒さ厳しい冬に行われる日本の受験シーズン、「サクラ咲く」の報を手にすれば、受験生も親たちも世界がパッと花開く気持ちを味合うだろう。その頃、日本は桜の時期を迎える。「サクラ咲く」の一方で「サクラ散る」もあり、受験が織りなす光景は悲喜交々。親の人生においても、わが子の受験は色々な意味で大きく記憶に残ることは確かである。(2022・3・11UP)

                                                                                          

 

子供たち

 リアリズムの写真家として有名な土門拳は昭和30年代の子供たちに魅せられ写真を多く撮った。日本全体がまだ貧しく、大人たちは明日に希望を託し、慎ましくも必死に頑張る毎日を送っていた。そんな中においても、子供たちの表情は明るく、目がキラキラと輝いていた。土門拳が撮った写真集の中には「筑豊のこどもたち」という貧しく憐れな子供たちもいたが、押しなべて子供たちは明るく伸び伸びしていた。やがて日本が豊かになり、巷にモノが溢れ、衣食住は満たされ、1億総中流と言われ始めた頃から、土門拳は子供たちの写真を撮ることを止めた。理由は、「子供たちの表情に以前のような輝きがなくなった」からであった。最近見たテレビ番組で、貧しい国に派遣された海外ボランティアの男性がこんな話をしていた。「貧しい国の子供たちの表情は明るく目が輝いていた。日本に戻って子供たちを見ると目に輝きがないのに驚く。豊かさとは何か、幸せとは何か、考えさせられてしまう」。写真家の土門拳とボランティアの男性の話は共通しており、これをどう解釈すればいいのか。答えは子供は社会の鏡であるということである。感受性の豊かな子供たちは、大人が作り出す社会の影響を強く受ける。豊かな環境にあっても、大人たちの表情が暗く精彩がなければ、子供の心も晴れない。逆に大人が元気で明るければ、子供たちは安心して伸び伸び出来る。子供たちは、大人が考えている以上に雰囲気を敏感に感じ取るものである。やはり、大人は子供たちにとって明るく元気な存在でなくてはならない。元気はエネルギーの源である。学校で嫌なことがあっても、家に戻って母親の顔をみれば気が晴れる、そんな環境が大事である。私が育った子供時代は総じてそうであった。母親は大なり小なり聖母マリアを乳房の中に持っている。壺井栄の小説「二十四の瞳」の主人公の若い女教師は、不幸な環境に置かれた女の子を抱きしめて一緒に泣くことしか出来ない。しかし、それだけで女の子は救われる。女の子は苦労しながらも力強く生きることが出来た。愛に力があるとすれば、まさにそうである。その意味で言えば、今の日本社会は元気や愛がやや乏しくなっているのかもしれない。愛は伝播力のあるもので活力にもなる。愛を柱としたキリスト教国の隆盛はその証である。日本に当てれば「慈悲」である。観音菩薩の笑みである。和顏布施である。慈悲の心で子供たちを包んでやろう。優しく強く抱いてやろう。それは何よりも勝る。人間も植物と同じように光のある方向に延びるものなのである。(2022・3・8UP)

 

 

兄三回忌

 今年は長兄,次兄の3回忌に当たる。コロナ禍もあり、事前に両方の義姉から身内だけで法事を行うという連絡を貰い、仕方がないという気分と寂しい気分の半々であった。気づけば、父、叔父と叔母の従兄弟を含め男は私1人になってしまった。昔神社の境内で遊んでいる内に、子供の親たちが「ごはんだよ」「いつまで遊んでいるの、家に戻って手伝いしなさい」と1人2人と去って行き、後に残ったのは自分だけ、眺めれば西空は茜色に染まっている、そんな孤立感。また、天から何者かが降りてきて、1人攫い2人攫いして空に消え、地球に残されたのは自分だけという空虚感、を噛みしめる。何度も書いたことだが、私たち3兄弟は顔も形も性格もまちまちであった。長兄は丸顔で体格もがっしりし、性格は強く、面倒見が良く、純で明るかった。次兄は中顔で体格は細見の筋肉質で、性格は真面目でクールで優しかった。かくいう私は長顔で体格は中肉中背で、性格は自分善がりでクセがあり、2人の兄からすれば、少々生意気な弟であったろう。兄2人は理系の高校に進み、卒業して長兄は東京のカメラメーカー、次兄は大阪のガラスメーカーに就職。私は文系の高校を卒業し、単身東京に出てアルバイトしながら1浪し、大学に進んだ。兄2人は、親のほぼ思惑通りの人生を歩んだが、私は軌道から外れた人生を送る。その分親に心配も掛けたはずである。そんな出来の悪い弟を、兄はいつも優しく見守ってくれた。就職した盆正月の帰省の時は全員のお土産を用意し、家業を受け継いでからは、「おう、戻ったか」と挨拶するだけであったが、それなりに気を使ってもてなしてくれた。映画、ボート遊び、釣りなどに誘ってくれ、楽しい故郷での時間を過ごすことができた。実家の葬儀、法事、祝宴を取り仕切り、満百歳で亡くなった母の面倒も最後まで見てくれた。良い意味での長男の甚六(徳)を備えていたように思う。次兄は、歳が2才違いだから、兄弟というより友達同士のような間柄で、お互いを認め合い、尊重し合うという絆で結ばれていた気がする。私の前で兄貴風を吹かすことはなかった。私にはない芯の強さがあった。それが優しさ、大きさに繋がり、誰からも信頼され愛される存在になり得たように思う。残された次兄家族の仲の良い関係を見ると、次兄の人柄が偲ばれる。同じ親から生まれた兄弟だから、似たところも当然あったが、三人三様の特徴のある兄弟であった。人間、最後は天に召されるのだから、いつ迎いがきても不思議ではないが、もう少しこの世に留まるよう、健康に留意し心安らかに日々を送ろうと思う。(2022・3・5UP)

 

 

ホモ・サピエンス

有史以来、人間は戦争ばかり繰り返してきた。なぜ、人間はかくも戦争好きなのか。「それは、モンキー(猿)の血を受け継いでいるからだよ」と言った学者がいた。動物園のサル山を眺めていると、仲良く毛繕いしている一方で、あちこちで喧嘩している光景をよく目にする。理由はサル社会が作り出す組織にある。ボスを中心に階級が出来、その中で生きなければいけないという環境のせいである。優秀なボスもいれば、そうでもないボスをいるが、それはチームワークとなって表れる。チームワークの悪い集団は、他の集団に飲み込まれてしまう。高度な人間社会も、一皮剥けばサル社会と同じである。厳しい生存競争の中で、リーダーの優秀性とチームワークの良さが鍵を握る。スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」のプロローグ場面で、2つの敵対するサル集団が登場する。弱いサル集団は常に恐怖と飢えに苦しむ。そんな中、知恵ある1匹のサルが、大きな動物の骨が武器として使えることを発見する。その骨を武器に相手のサル集団を撃退し、獲物も簡単に手に入れられるようになり、大きな骨を空に投げて勝ち誇る。場面は一転して巨大な宇宙船の浮かぶ2001年の宇宙世界に変わる。人間の進歩は「知恵と道具」という印象操作である。20世紀後半に、人間はアインシュタインが導き出した科学方式(E=mc2)から史上最強の武器(道具)を作り出すことに成功した。原子爆弾である。更にそれにロケット技術を融合させ核兵器を考案した。第二次世界大戦の戦勝国であった米国、ロシア、中国、英国、フランスは、その製造にしのぎを削り合った。その数だけで地球は全滅する。サルが発見した骨からすれば、何とも恐ろしい道具である。非核三原則、核抑止力が知恵の一つとして編み出されているが、核保有国は本気には捉えていない。現に、今度のロシアのウクライナ軍事侵略において、プーチン大統領は核兵器使用も辞さない態度を示している。恫喝で済めばいいが、1回でも仮に限定核兵器としても使えば、その均衡は破れる。全面核戦争は起きないとしても、核兵器のバンドラの箱が開いたことになる。改めて考えるのは、人間社会にとって1番大事なのはリーダーの資質である。国民の総意で選ばれるリーダーなら大きな過ちは犯さないだろうが、権力を握るリーダーとそのブレーンが国を動かす場合は危険が伴う。21世紀にもなっても、未だサルから抜き切れていない人間は、果たしてホモ・サピエンス(賢い人)と呼べるかどうか。(2022・3・3UP)

 

 

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