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期待

 吉村洋文大阪府知事は、今の日本の政治家においては異質な存在である。経歴を見ると、大阪生まれ、九州大学法学部卒、弁護士、税理士、大阪市長選挙に立候補して初当選。その後大阪府知事に転身。所属は松井一郎市長と同様に大阪維新の会である。注目すべきは46歳という若さである。道州制を見据えた大阪都構想、行政の合理化を図る二重行政の撤廃、脱炭素を目指すエコロジー社会の実現など数々の先進的なビジュンを持っている。集団的自衛権の行使、首相の靖国参拝賛成など国の意識もしっかりとしている。議会やマスコミの対応も真面目である。政治家としての色彩がはっきりしている。これは政治家としては大事な要素で、リーダーとしても好まれる条件である。若さゆえの勇み足もあるかもしれないが、政治の正しい力を取り戻し、大阪を新時代に向かわせるという期待を感じさせる。政治家は常に批判の対象であるべきという私の考え方からすれば、異例の好感度である。今の中央の政治家も官僚も政治の本質を見失い、このまま進んで日本は「大丈夫か?」という不安を抱かせる。大阪は昔から進取の気風と自由を尊ぶ土壌がある。明治維新は地方の若い侍たちが起こしたが、陰で支えたのが町民の財力であったという側面も見逃してはならない。政治は単体で存在しうるものではなく、社会、市民、経済、生活と結合して生まれる。吉村知事の活動を見ていると、その認識の程が分かる。逆に今の中央の政治、行政は、民主主義、自由主義、財政計画、市場経済において、国民と乖離が生じている。「日本は官僚が支配する社会主義の国」と皮肉った政治評論家がいたが、全くの的外れとは思えない。今回の東京五輪・パラリンピックの強行開催も、国民世論の声は全く無視されている。「まるで戦争前夜である」と警鐘を鳴らす社会評論家もいるが、これも的外れとは思えない。開催後が心配である。国民が政治に託す願いは単純である。国を善い方向に導き、国民の暮らしを守り、豊かにし、希望の持てる国にすることである。政治家は国民の代理人であり、国民は税金を払って、その義務と責任を委託している。政治に政争は付き物としても、そればかり見せつけられる国民はたまったものではない。要は中央の政界も官界もリーダーがいないのである。同じ穴の貉が政治ごっこを演じている風にしか見えない。政策を巡り閣僚同士で足の引っ張り合いをしている始末である。吉村知事は、「大阪から日本を変える」と豪語した。その言や善し。理想都市大阪の実現のため粉骨努力して欲しいと思う。(2021・7・20UP)

 

 

厄介

 バブル崩壊後の不動産不況を何とか乗り切った頃に、還暦祝いも兼ねて夫婦で台湾旅行に出掛けた(P3)。旅行中は食欲がなく、身体の倦怠感を覚えた。戻ってからもしっくり来ない日が続いた。ある日トイレで血便を見て、近くの総合病院で精密検査を受けることにした。大腸の内視鏡検査の結果、3つのポリープが見つかり、直腸にある凹んだポリープが細胞検査で癌と認定され、すぐに切開摘出手術を受けることになった(P4)。放置していたら癌は悪化し、他の臓器に転移したことは間違いない。手術は適切であった。問題は、手術前に医師から「人工肛門にするか、肛門を残すか」の判断を迫られた時に、肛門を残す方を選択したことである。それで厄介な症状を抱え込むことになった。簡単に言えば便秘と頻便による排便障害である。原因は便の動きを調整する直腸の内括約筋を切除したことにある。便秘の時は腹が重苦しく、頻便になると出し切るまでトイレに通うはめになる。大体それが1週間サイクルで、慣れたとは言え、常に尻を意識する生活を余儀なくされる。最初の直腸の手術の後、傷が治るまで一時的に人工肛門を付けたが、それはそれで大変であったが、少なくともこの悩みはなかった。人工肛門を付けた人を「自由な障害者」、肛門を残した人を「不自由な健常者」と呼ぶのも分かる。ネットで検索すると同じ悩みを抱えた人は多く、自分で乗り越えていくしかない。私の場合、食事に気を使う、良く噛んで食べる、肛門筋を鍛える、簡易パッドを使用する、便秘薬を効果的に使うようにしている。色々試したが、植物性便秘薬「ウイズワンエル」が自分に合っている。就寝前に服用すれば、翌日には腸内がほぼ空っぽになり、3、4日は安心出来る。旅行前などたまにしか使用しないので、副作用の心配もない。ところで、先月の新型コロナのワクチン接種前の診察で、主治医が私のカルテを見ながら「ご主人は年に1,2回しか病院に来ておられない。それも軽い風邪程度。その歳になれば通院する持病の1つ2つあってもおかしくないのに、丈夫なんですね」と笑顔で私に話した。「えっ?」と思いながらも嬉しい気になったが、内心複雑であった。この症状のため体調に気を使っていることは確かである。「一病息災」という言葉があるが、この症状を病気と解すれば、多少当て嵌まるかもしれない。思えば、田舎暮らしを愉しめたのも(P5)、このプログを長く続けてこれたのも、この症状のお蔭とも言える。多少気は重いが、そういう生き方を続けるしかないか、と諦めている。(2021・7・18UP)

 

 

花開く

 先週北海道の桂ゴルフ倶楽部で開かれたニッポンハムレディスクラシックの最終日は、トップの若林舞衣子(33)と2位の堀琴音(25)との事実上の一騎打ちであった。共にノーボギーでバーディーを重ね合う展開で、息を飲む面白さがあった。ベテランの味を見せる若林と中堅の強かさを見せる堀の対決は、若い黄金世代が活躍する女子トーナメントとはまた違った醍醐味があった。私は前から堀のファンで、良家のお嬢さん風の物怖じしないプレースタイルが好きだったから、今回も固唾を飲んで応援した。堀は、数年前のトーナメントで2位に終わった後に絶不調に陥り、シード権も失う羽目になった。本人曰く「この世の終わり」の絶望感を味わいもがき苦しんだ。その後新しいコーチに付いて、肝心な時にショットが曲がる修正に散り組み、持ち球をフェードに切り替え、練習に励んだ。その不屈の精神が、今回の18番距離のあるパー4のプレーオフ3ラウンド目のフェアーウェーを確実に捉えたドライバーショットとフェアーウェーからグリーンを狙ったセカンドショットに花開いた。ボールをピン手前約2メートルにピタリと付けた。若林はドライバーショットを左に曲げ、2打目は前方の木に邪魔され直接グリーン狙えず、強烈なフックを掛けて打ったが、グリーン手前のラフまで運ぶだけで精一杯であった。この時点でほぼ勝負が決まった。堀は数センチのウィニングパッドを沈めて初優勝を手にした。優勝のガッツポーズする堀に、「よくやった」と拍手を送り、嬉し涙にもらい泣きした。まさに感動ドラマであった。ここでも「練習は嘘をつかない」が実証された。女子トーナメントで史上最長距離の難コースでのノーボギーの優勝は自信にもなっただろう。今のショットとパットの好調を持続できれば、2勝目も期待出来る。ここで思い起こすのは、森田理香子である。岡本綾子の愛弟子で、素晴らしいフォームをした選手であった。数々の優勝を飾り、賞金女王にも輝いた。このまま成長すれば更に凄い選手になると期待を寄せたが、いつの間にか神隠しにあったように姿を消してしまった。本人の弁明によれば燃え尽き症候群であったようである。ゴルフはブランクがあっても、やる気さえ取り戻せば再起可能なスポーツである。今回のママさんゴルファーの若林もそうである。出産、育児を経て、1段と逞しくなって戻って来た。若林は「もう怖いものは何もない」と言う。森田も、開き直った気持ちでゴルフ界に戻ってきて欲しい。あのゆったりとした華麗なフォームをまた見たいと思うファンは大勢いると思う。(2021・7・15UP)

 

 

赤字国債

 国の財政予算の約40%を赤字国債で賄う、誰が考えても異常。それが今の日本である。その赤字国債発行という「パンドラの箱」を開けた総理大臣は誰か。昭和39年から昭和46年まで続いた自民党の佐藤栄作政権である。切っ掛けは昭和39年の東京五輪後の深刻な国内不況である。日本全体が祭りの後のような沈んだ状態に陥った。そこで景気回復の目的で、特例法を設けて赤字国債を発行したのが始まりである。これはかって米国のルーズベルト大統領が不況対策で実施したニューディール政策という経済学者ケインズの唱えた景気刺激策(政治統制)を踏襲するものであった。それまでの日本は財政法を順守して均衡予算(税収イコール支出)を堅持しながら戦後復興に取り組んでいたが、国の予算が膨らむにつれ、それだけでは賄い切れなくなった。禁断の手であっても、背に腹は代えられない状況にあった。日本経済は基調としては鰻登りで、景気が上向けば、税収が増え国債の償還は出来る目途は立っていた。しかし、一旦開いた「パンドラの箱」が易々と閉じる訳がない。その後の政権はことある毎に、打出の小槌を使うが如く赤字国債を刷り、国中にばら撒いた。佐藤、田中、福田政権までは良いとしても、日本が低成長期に入ってからも、財政規模を増やし、赤字国債に依存する杜撰な財政運営を続けた。借金は元金を返済しない限り減らない、金利だけが膨らんで行く。思い起こすのは、再建の名人であった二宮尊徳の「分度分限」という考え方である。分度分限を見誤れば身を滅ぼす。自分の置かれている状況と実力を見極め、コツコツと努力を積み重ねることの大切さ。要諦は「支出を制して収入を量る」というスリム化と合理化である。日本は1964年の東京五輪と1970年の大阪万博で、その分度分限を狂わしたと言える。いかに戦後高度成長したとはいえ、焦土と化した敗戦から20年足らずである。見せかけの繁栄を気取ったところで、中身はまだまだであった。急ごしらえは無理が生じる。その結果が赤字国債の増大である。身体はMサイズなのに無理にLLに合わそうとしている滑稽さに通ずる。経済が国の発展に欠かせない、景気がお金の流れを良くすることは分かる。然し今の赤字国債の大半は赤字の補てんで、経済や景気とはほとんど無関係である。当初の赤字国債がワクチンなら、いまの赤字国債はお金を食い荒らすウイルスである。破産国の惨状は酷い。貧すれば鈍するという例えもある。私ごときが吠えても仕方がないが、国を上げて真剣に財政再建に取り組まないといけないと思う。(2021・7・13UP)

 

 

 

大谷翔平

米国のメジャーリーグで大活躍を見せている大谷翔平は、イチローとは全く違うタイプの日本選手である。イチローは、体型的にも技術的にも日本人らしさを感じたが、大谷は異次元だ。こんな選手が生まれたこと自体誇らしく思う。大谷は、岩手県の花巻東高校からドラフト1位で北海道の日本ハムに入団。当初からメジャーの移籍を希望していた。そのことも異例であったが、本人からすれば自信があったのであろう。栗山英樹監督は、「メジャー挑戦は、日本のプロ野球を経験してからの方がいい」と説得。今思えば、監督の判断は正しかった。高校出の身体はまだ発育段階で、すぐに過酷なメジャーに移籍していたら身体を壊したかもしれない。それでも腕を故障し手術をする羽目になった。メジャーと日本プロ野球は、相撲で言えば幕内と幕下ほどの差がある。ポスティングシステムで移籍したロサンゼルス・エンゼルスのチームカラーも味方したようだ。当初移籍先は金満球団のヤンキースが本命視されたが、高校時代から大谷に目を付けていたエンゼルスのGMから、「弱小チームだが、一緒に成長しよう」と言われ、入団を決めたようだ。大谷の男気を感じさせる話である。ヤンキースやレッドソックスのような東海岸都市の伝統ある人気球団に入っていたら、スムーズに溶け込めたかどうか。現在のエンゼルスは二刀流の大谷の活躍で人気を集めているようである。まさに2つの翼を持つエンゼル(天使)である。監督もコーチも、大谷の意思と立場を尊重し、自由にやらせているところも好感持てる。「ショウヘイは本当に野球が好きで、それにブレーキを掛けることは出来ない」と監督も述べている。その球団の自由な気風から、大谷はデータ分析を取り入れ自分のスイングの改造に取り組んだ。従来のダウンスイングからアッパースイングに切り替えた。重力に逆らうアッパースイングは並外れた筋力が要求されるが、大谷は効果的なトレーニングでこれを克服。野球理論の常識を打ち破ったのである。ボールを芯に捉えれば、広角にホームランが飛び出すようになった。今後真似する選手も出るかもしれないが、筋肉を傷めるか、打率を下げるのがオチだろう。柔軟性、動体視力、呼吸法、集中力、配給を読む力など、総合的な力が必要である。この点において、大谷の中に心技体の日本人らしさを感じる。このままいけば、ベーブ・ルースに匹敵する大選手なる可能性は充分にあると思う。やがて、海の向こうから、青い目の金髪美女と結婚というニュースが飛び込んで来ないとも限らない。それはないか(笑)。(2021・10UP)

 

 

知識について

知識は、ないよりあった方が良い。世間を広く生きられるし、人生に有利に働くからである。しかし、何でもかんでも貯め込めばいいかと言えば、必ずしもそうとも言えない。逆に世間を狭くし、不利に働くケースもある。現在は情報化社会、色々な知識が媒体を通じて発散されている。普通に暮らしていても蓄積される状況である。中に無駄な知識もある。一旦溜まった知識はポイとゴミ箱に捨てるような訳にはいかない。そこが人間とコンピューターの違いである。この矛盾を解決するには、知識を選別するしかないだろう。無駄な知識はシャットアウト、必要な知識だけを取り入れるようにする。私が知る限り、理系の人は選別が得意で、文系の人は色々な知識を欲しがる傾向がある。選別自体が理系の頭が必要とされるからであろうか。その意味で言えば、人間社会は上手くバランスが取れている。文系、理系という分け方も理に適っている。組織、集団を考えた場合、一方だけに偏っていたら、うまく機能しない。両方の知識が合わさってこそ、相乗効果が発揮される。かって映像で観たホンダ技研の創業者の本田宗一郎は講演で、「自分は根っからの技術屋。技術に関してはプロだが学歴はない。自分の力だけでは世界のホンダに成長させることは出来なかった」という趣旨を語っていたが、まさにそうである。技術の知識と他の知識が融合して、本田技研は世界有数の自動車メーカーに飛躍した。これは本で読んだが、京セラの創業者の稲盛和夫の生き方もそうである。陶磁(セラミック)一筋の人であった。その稲盛が自ら掲げた経営理念は「他利」の2文字である。他人の利益を最優先にする心構えである。自分の利益を優先するやり方は、「動機が不純」として厳に戒めた。序に言えば、ソニーの創業者の井深大の生き方もそうである。3者の共通点は、自分の知識を生かすべく技術屋に徹したことである。「社会に役に立つ先駆けた製品を作る」ことに精魂を傾けた。本人たちの頭の中には、そうすれば利益は必ず自分に戻ってくるという確信があったのだろう。その理念は単純で、余計な知識の入り込む余地はない。逆に言えば人一倍欲深い人であったとも言えるが、重要なのは、自分の得意な知識を最大限に生かしたことである。知識は生かしてこそ価値がある。それを知恵と呼ぶ。いかに知識が豊富でも、頭の中で眠っていては意味がない。些細な事でも、役立てることが大事である。身の程も弁えず偉そうなことを書いたが、それぞれの個人が知識を生かせば社会はもっと住み易くなるだろうと思う。(2021・7・8UP)

 

 

お笑い界

動画サイトでお笑いコンビのサンドイッチマンのコントを時々楽しんでいる。漫才より笑いが濃い。伊達と富沢の息もピッタリ。2人は学生時代からの友人同士で、お笑い界を目指して東北から上京し苦労を共にした間柄である。ネタも日常を扱ったものが多く無理がない。特に感心するのを、伊達の間の良さである。相方とのタイミングを瞬時に読み取り、笑いに活かすテクニックは抜群である。この間の使い方や仕草は、誰かに似ているなと考えたら、あの関西の喜劇王の藤山寛美である。寛美の笑いは間の芸と呼べるもので、相手の間と自分の芸を被せることで、笑いを増幅させる術に長けていた。寛美と同じく松竹芸能の笑福亭鶴瓶も間の使い方が巧い。NHK「鶴瓶にかんぱい」は素人との触れ合いにもその間の良さが活かされている。対照的なのが明石家さんまである。悪く言えばスタンドプレイ、さんまが笑いを1人占めしてしまう。他の芸人からするとネタを横取りされるから、「さんまさんは怖い」ということになる。さんまと互角に渡り合えるのはたけし、タモリ、所ぐらいか。さんまの笑いはテレビのスピードに合わしたもので、重宝されるのも分かる。近頃はお笑い界も変化してきている。テレビ界を席捲した関西のお笑いブームも下火になり、ローカル色のある芸人の活躍が目立つようになった。熊本のくりゅむしちゅー、福岡の華丸大吉、岡山の千鳥コンビ、広島のアンガールズ、栃木のU字工事、北海道のタカアンドトシなどがそうである。サンドイチッマンに話を戻すと、一見強面風であるが、ナイーブで愛嬌があり親近感がある、私の子供時分には、周囲を笑わせるあんちゃんやおっさんがいたが、サンドイッチマンも同じ系統である。実際は凄腕のプロフェショナルである。でなければあれだけのクセのある役を演じ分けられる訳がない。笑いには色々なパターンがある。大事なのは観客との一体感(共感)だろう。言うは易し行いは難し、それが1番難しいことかもしれない。コントにはその笑いのエッセンスが詰まっている。面白ければ得した気分になる。時代が変われば笑いも変わる。コントに関しては、志村けんと組んだバタ臭いダチョウ倶楽部、現代若者風の東京03、わが道を行くタイプのサンドイッチマンたちが自分たちの個性を発揮した笑いを提供している。ライブ、ビデオ、動画サイトも応援している。お笑い界も、金子みすゞの詩ではないが、「みんなちがって、みんないい」である。売れっ子になっても、練習に励んで新たな笑いに挑戦して欲しい。(2012・7・5UP)

 

 

灯りがちょっぴり

 何か楽しいことをと思うのだが、浮かばない。昨年はあれでも、長男夫婦と孫2人と一緒に博多湾の豪華リゾートホテル1泊旅行と、秋に夫婦で姫路の書写山、天空に浮かぶ竹田城跡、城崎温泉1泊のドライブ旅行をした(P61P62)。共にGOTOキャンペーンを利用したもので、コロナ禍の中でもそれなりに楽しかった。今年に入り、GOTOキャンペーンも中止になり、自粛ムードも1段と強まり、とても旅行に行く気にはならなかった。長い人生で、こんな経験は初めてである。こういう生活が続くと、知らず知らずにストレスが溜まるだろうが、どうしょうも出来ない。先月最後の日曜日に、夫婦で1回目のワクチン接種を受けた。2回目は今月の18日の予定。1回目と2回目の間隔を20日は空けるようになっているらしいから、遅れるのは仕方がない。ただ、1回目のワクチン接種した後は、微熱、腕の痛み、身体の怠さが3、4日続いた。ウイルスの抗体が出来るまで、身体の内部で格闘が繰り広げられているのだろう。家内は、「2回目の方がより副作用が出るらしいから、不安だわ」と今から心配する。さりとて1回目で止める訳にはいかない。高齢者の2回目接種が終わるのが7月一杯として、順次進んだとして、全員の接種が終わるのはいつ頃になるのか。全員が終えたら、社会の空気も徐々に変わるだろう。それを期待するしかない。先週日曜、孫を連れて遊びにきた長男が、コーヒーを飲みながら、「全然使わないからJALのマイルが溜まって、家族でハワイ旅行にも行けるわ」と話す。「コロナが落ち着いたら行けばいいじゃないか」と勧めた。すると、今度は家内が「私は、広島の従姉と一緒に北海度旅行するわ」と言う。従姉さんは先月転んで肩の骨を骨折し、同時に軽い脳梗塞を患った。家内がその見舞に行った際に、2人で約束したらしい。家内の1つ歳上の従姉さんは、広島市内で借家を何軒も持つ地主の長男(既に逝去)に嫁ぎ、化粧品店を営んでいたが数年前に閉じた。旅行費用は従姉さんが出すという。脳梗塞も治まり、現在肩の骨の手術で入院中である。旅行はその結果とコロナ次第であるが、「それはいいね。是非行って来たら」と賛同した。家内も今月で後期高齢者の仲間入り。それを期に長年続けた週2、3回の衣料関係のパートも辞めることにした。その慰労と感謝を込めて、これまで旅行経験の少なかった仲良しの従姉さんとの北海道旅行を叶えさせてあげたい。北海道で次男夫婦と孫2人とも2年ぶりに会えるだろう。アフターコロナの灯りがちょっぴり見えた気がした。(2021・7・3UP)

 

 

分岐点

戦後政治を顧みると、大きな分岐点は1972年の田中角栄内閣であったと思う。一般では、長期政権を担った佐藤栄作内閣を引き継ぐのは同じ東大卒の官僚出身の福田赳夫が有力視されていたが、型破りの党人の田中角栄が「角福戦争」を仕掛け、豊富な資金力にものを言わせ、強引に総裁ポストを手に入れた。敗れた福田は憮然とした表情を浮かべ、「天の声にも変な声がたまにあるな」の皮肉なコメントを吐いた。自負心の強い福田は次は自分と信じていたようである。佐藤の信頼も厚かった。敗因は佐藤派の中の議員が田中に寝返ったからである。憲政史上1番金に塗れた総裁選と言われた。後に金権政治と呼ばれる金の力が政治の世界にあからさまに影響を与えるようになったという意味で分岐点であった。あの時、禅譲のように佐藤から福田に政権が移行されていれば、その後の日本の政治はずいぶん様子が変わっただろうと思う。田中が唱えた日本列島改造論、高度成長論に対し、福田は政治の役割と分限を弁えた安定成長論をベースに実利的な政策を打ち出していた。その後福田は1976年に政権を握るが、保守本流の力を発揮し、先の見通せる政策を実施した。政治改革、アジア開発銀行設立、成田国際空港開港、日中平和条約締結、国民栄誉賞創設など数々の実績を上げた。当時私は、これで日本の政治も軌道修正できると期待した。然し、田中はロッキード事件で失脚しても、最大派閥を率いて陰のキングメーカーとして強い影響力を持ち続けた。福田内閣も大平正芳を担ぐ田中の力に潰されてしまう。その後誕生する自民党内閣は、ことごとく田中の影響下にあった。中でも宮沢喜一は田中派の幹部から屈辱的な面接試験までさせられた。政治は力、力は数、数は金という方程式が常態化してしまった。「政治とカネ」の問題も官遼組織の腐敗もバブル経済も、元はと言えば、あの分岐点が始発である。政策は全て金に換算され、利権構造が生まれ、本来の政治の目的が失われる事態が目立つようになった。エネルギー政策、福祉・農業政策、五輪誘致、カジノ法案、コロナ対策に纏わる不正事件もそうである。分岐点以降は政治の停滞を招き、空白の時代を生み出し、政治の責任と義務が疎かになった。論語では「政は正なり」と説いている。政治は悪路に嵌り易いという裏返しでもある。今の日本の政治を正常値に戻すには、明治維新や戦後の昭和改革並のパワーが必要だろうと思う。(2021・7・1UP)

 

 

 

キス

 3歳半になる双子の孫がわが家に来ると、男の子は「おじいちゃ〜ん」とすぐに駆け寄ってくるが、女の子は何となく私を避けるような素振りを見せるようになった。そこで、ふと思い付いた。女の子の方は、抱き上げた瞬間に白い桃のようなホッペにキスをしていた。いわゆる「チューする」である。女の子は、そのチューが嫌だったのであろう。家内にそれを話すと、「親もしていないのに、いやに決まっているでしょう」とピシャリと言われてしまった。チューを止めてからは寄ってくるようになったが、やはりどこか警戒している風である。愛情表現として、やはり日本人にはキスは不向きなのかもしれない。若い頃から欧米映画に慣れ親しんだこともあり、欧米人同士が交わすキスを見て、スマートで恰好いいなと憧れていた。年頃になり、好きなガールフレンドとのキスも経験したが、相手は嫌でなかったのではないだろうか、と思い出し苦笑する始末。キスは日本語で接吻、口づけ、口吸いと呼ばれるが、果たして日本で古くから愛情表現として広まっていたものかどうか。口と口を合わせば、当然唾液もついてくる。欧米人は唾液には愛の特効薬が含まれていると思っているらしいが、日本人は気持ち良くなる前に、不潔に感じるのが先ではなかったか。昔公園などで若いアベックのキスシーンをよく見かけたものだが、欧米映画に触発された可能性は大いにある。欧米人と顏形や生活習慣の違う日本人にとって、欧米人の真似をしようとしても、どことなく嘘っぽく見えてしまう。今回の新型コロナウイルスの影響で、キスを挨拶代わりにする欧米社会では、さぞかし愛情表現のやり場に困っているだろう。密といえば、キスほどの密はない。ストレートにウイルスが遷ってしまう。しかし、衛星放送で欧米のニュースを見ても、キスは控えるべきという注意のコメントはない。言わなくても分かっているのであろうが、欧米人にとっては、また違ったストレスを抱えることになる。何しろ、常に愛情を確認し合わないと、不安に陥る人たちである。欧米社会では、新型コロナウイルスで男女の関係が危うくなり、離婚率が高くなるケースも考えられる。逆に日本ではテレワークで夫婦仲が密になることもありうるか。それはともかく、新型コロナウイルスは色々な所で悪影響を及ぶ厄介なシロモノである。昨日日曜日、私たち夫婦もかかりつけの病院で、1回目のワクチン接種を済ませた。少しチクリとする程度であったが、気持ちが少し楽になった。夕方息子夫婦がやって来た。先週は「父の日」のプレゼント(ビールセット)に持って来たりして色々気を使ってくれている。少しハイになり、抱き上げた女の子に思わずホッペにチューをしようとしたが、寸前で止めた。また嫌われては困る(苦笑)。(2021・6・28UP)

 

 

最期について

作曲家・小林亜星氏の訃報がテレビニュースに流れた。享年88歳。有名CMソング、歌謡ヒット曲の作曲を手掛け、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」で主人公の頑固おやじ役で人気を集めた。肥満で丸坊主ながら元慶応ボーイのユーモアとハイカラなセンスを持った人であった。死因は「心不全」という。家の廊下でバタンと倒れ、そのまま天国へ。前夜は美味しく酒を飲んでいたというから、大往生に近いと言えるのではないか。ふと自分は最後どういう死に方になるのか考えた。大まかに老衰、病死、自死、事故死とあるが、自分はどれに該当するの。母体から誕生するのは同じだが、死に方は様々。これまで生きて多くの人の死を見聞きしてきた。多いのはやはり病死である。自分の親族、知人もほとんどそうである。老衰に近かったのは、祖母、母と家内の義母ぐらいか。人間も機械と同じで長く使っていれば故障も増える。結果的にそれが命取りになる。自死はそれとは違うが、心の病気が原因とすれば、広義では病死とも言えるかもしれない。事故死、これは災難である。実に種類が多く、交通事故、自然災害などいつ何時襲われるか分からない。昨日ニュースで流れた米国フロリダで起きたマンション崩落、誰が予測できたか。死に方からすれば1番理不尽である。あれこれ考え、自分に好ましい死に方に思えるのは、浴室で倒れて亡くなることである。浴槽にゆっくり浸かり、いい気分で立ち上がった瞬間にクラッとして倒れ、心肺停止してそのままあの世逝き。家族が発見し、急いで救急車を呼ぶ、救急隊員が駆けつけて緊急処置を施すも無理と分かり、シャワーで身体を洗浄し拭いた後、綺麗な寝間着姿で布団の上に寝かされる。死因検査の結果、「心不全」「脳出血」と書かれた死亡証明書を出して、救急車は音も立てずに去って行く。残された家族も、後は葬儀屋の手配と身内だけの葬儀を行うだけ済む。自分にとっても、家族にとっても、楽な死に方のように思える。ネットで調べると入浴関連急死者は意外と多く、厚生労働省の調査では全国で毎年1万4000人以上と推計されている。その約9割が高齢者である。高齢になると心臓が弱くなり、浴室の温度差による血行障害が原因のようである。本人の自覚からすれば、たいした痛みもなく、気が失われるだけの感覚だろう。楽な死に方であることは間違いない。似たような死に方に腹上死があるが、これは風聞が悪いし、高齢者には縁がない。どういう死に方にしろ、この世に生まれてきた限り、誰もが必ず経験するものである。「死は、亡くなる寸前まで考えないことです」と語った有名人がいるが、実際はそうもいかない。高齢になれば死は身近なものとして迫ってくる。晩節を汚さず、余り苦しまず最期を全うできればと願うばかりである。(2021・6・26UP)

 

 

頭の競争

人間はなぜ、頭の良いことを評価するのか?。国や社会や個人にとって有益だからである。頭が良いことで優位性が担保されるからである。その意味で言えば、世界は頭の競争でもある。毎年米英の大学評価機関が実施する「世界大学ランキング」もその1つの指標である。総合的な見地から優秀な大学はどこか。順位を見ると、米英の大学が上位を独占し、日本の大学は100位以内に東京大学36位、京都大学54位、200位以内に旧帝大と東京工業大がある程度である。ノーベル賞受賞者も米英が最も多く、アジアでは日本が1番健闘しているが、それでも差は歴然。その差はどうして生まれるのか。前も述べたが、米英のアングロサクソン系は制度、組織、環境を作り出す能力が並外れている。それ自体頭の良さと言えるが、特長は戦略性を帯びていることである。世界から優秀な人材を集めることに長けている。世界の科学論文も集中管理している。これは他の国が真似しようとしても出来ることではない。もはや既得権化している。歴史を見ると、日本は江戸時代の藩校、寺子屋、私塾など教育に力を入れていたが、米英の教育環境はそんなレベルではない。世界から優秀な学生を集め、個性を活かす英才教育を確立している。頭を科学し、それが国や社会や個人に活かすシステムを、どの国よりも効果的に実施している。その教育環境とスピリッツは昔も今も一貫している。英国の産業革命も、米国の情報革命も、その結果である。日本の場合、「教育は国家百年の大計」を掲げた明治維新から戦前まではその米英型の教育方針と倫理観に基づくスピリッツはあった。福沢諭吉、新渡戸稲造など啓蒙家が「欧米に追いつけ、追い越せ」と檄を飛ばした。日本の近代化は進取の気風の溢れた武士たちが主力となって成し遂げた。それが戦後の教育改革によって徐々に崩れ、更に間違った平等教育、君が代反対の日教組、PTAの邪魔が入った。結果、教育の目標値を見失った。頭の良さが単に偏差値で測られるという仕組みが常態化し、大学の数だけがやたら増える結果になった。戦前までの日本の教育は正道を歩んでいた。慢心した軍閥による軍国主義が日本の教育の歯車を狂わしたのである。今一度、日本は頭を科学し、頭の良さを公益に活かす教育環境を再構築する必要がある。目標値が個と公では視野もスケールも違う。それには日本人のスピリッツを取り戻すことが先決である。そうしなと、日本の教育水準は米英からますます水を開けられ、アジアにおいても後塵を拝することになる。日本の今の政治家、官僚に果たしてその危機感はあるのか。(2021・6・24UP)

 

 

隣の芝生

「隣りの芝生は青く見える」は、英語の「The grass is always greener on the other side」が語源である。英国人にとって芝生は馴染み深いグラス(草)である。日本で見られる高麗芝と違って1年中緑色を保つところから、エバーグリーンとして愛着が深い。日本人の苔の関係と似ている。日本人は庭園の地面を緑色に染めるカバーの役目としては苔を重宝した。色は芝生と似ているが、真逆の植物である。陽と陰である。それは英国人と日本人の特質の違いにも表れているように思う。共通しているのは、緑色を好むということである。緑色は目に優しい、気分が落ち着く、瑞々しい心を養うという性質を有している。精神医療効果のある植物である。私が芝生で1番感動したのは、東京で貧乏な大学生活を送っていた頃、アルバイト先の友人と新宿御苑を訪れ、広大な芝生の景色を眺めた時である。丘状に広がった芝生の美しさに心が洗われるようであった。以後、時々新宿御苑に足を運んだものである。ところで、「隣りの芝生は青く見える」だが、これは例えであって、自分より他人が良く見えるという人間の習性が織り込まれている。つまり羨望、妬み、劣等感の感情が含まれている。「友がみなわれよりえらく見える日よ・・・」の石川啄木の詩の心情と似ている。しかし、他人と比較するのは人間の本能に近い感性であるように思う。「他山の石」のことわざにあるように、知る、競う、学ぶという要素があるからである。隣の芝生が青く見えないのは、むしろ鈍感と言える。そこには発展性はない。それは国の発展性においても言える。約260年続いた徳川幕府の封建制を閉じて、近代化の道を切り開くべき明治維新を実行した当時の若い日本人にとって、西欧の国々は、光輝く太陽のように映ったはずである。全てにおいて日本は遅れていると実感したはずである。同時に日本を含むアジアの停滞ぶりに歯ぎしりを覚えたはずである。アジアの中で日本だけが文明開化という鋭敏な目を持っていたことは不思議であるが、これは経営の神様と呼ばれた松下幸之助が経営哲学としていた「素直な心」が日本人の心の土壌にあったからと思う。「素直な心」は、岡倉天心が「茶の本」の中で述べた「空」と相通ずる。日本が西欧の科学、文化をすばやく取り入れることに成功したのも「空」の状態であったからである。今の日本は満腹状態か。そう勘違いしているだけではないのか。今一度、「隣の芝生は青く見える」という鋭敏な感性を取り戻さないといけないと思う。(2021・6・21UP)

 

 

 

恐ろしい話

昨年初め、中国の武漢市で発生した新型コロナウイルスは瞬く間に世界に広がり、史上かってない感染者と死亡者を出し、ワクチン効果が出始めたとはいえ、感染力の強い変異株が次々に生まれ、まだまだ予断の許さない状況である。今度の新型コロナはこれまでのウイルスとはタイプが違うように感じる。人工的に作り出された強い毒性を持っているように思う。当初、中国科学院武漢ウイルス研究所から漏出したのではないかと疑いの目が向けられた。WHOの調査団が捜査に乗り出したが、確たる証拠は掴めず、中途半端な結果に終わった。バイデン米大統領は中国が証拠を隠滅したのではないかと、再調査を指示した。すぐに中国が反発し、コロナウイルスは米国が民主党のオバマ政権時代に武漢ウイルス研究所に持ち込んだもので、米国が研究資金まで提供したと発表したから大変。その後心なしか米国の攻撃が緩む。米国と中国が裏で手を結び、共同研究していたことになるのか。中国は過去に自国で発生したウイルスのサンプルを保有しており、米国はそれを警戒し、武漢ウイルス研究所に援助のかたちで入り監視しようとした可能性もある。不可解なことは、米国も中国も新型コロナ用のワクチンをすぐに製造し、どこよりも先に収束の方向に向かっていることである。この流れからすれば、米国も中国も、相当前から新型コロナとワクチンを開発していたことになる。「火のない所に煙りは立たない」、これが事実なら実に恐ろしい話である、しかも、米国と中国、ロシアを加え世界最大の核兵器保有国。中でも米国は世界で最初に原子爆弾を開発し、日本の広島、長崎に投下し推計21万人の無辜の市民の尊い命を奪った国である。どう正当化しようが、ホロコーストである。今も銃社会を容認し、国内で乱射事件が頻発しても、この基本姿勢を変えようとはしない。なぜここまで相手を敵対視するのか。恐怖観念に捉われるのか。米国至上主義に基づく安全保障と米国資本主義による冨の支配が根底にあることは間違いない。それは西部開拓時代から培われたフロンティア・スピリツトの変異株とも言える。パワーは正義という原理である。米国は、世界が羨む魅力的な国であるが、同時に大きな危険を孕んでいる。心配なのは、アジア最大の大国に伸し上がった中国が、これまた大国病に罹って中華大共栄圏という名目で米国と覇権を争っていることである。過去の米国とソ連の対立は分かり易かったが、現在の米国と中国の関係は複雑で分かり難い。今後も世界は大国のエゴに翻弄され続けるだろう。果たして世界の未来はどうなるのか?。(2021・6・17UP)

 

 

孫と花

先日朝6時過ぎ、近くに住む息子から電話があった。何事かと思ったら、代わった家内の話だと孫が保育園に持って行く花が欲しいということであった。そういう宿題が出たらしい。息子の家にも近くの嫁さんの実家にも花らしきものはなく、慌てて頼んできたという訳である。家内が「お安い御用よ」と快く引き受け、車で駆け付けてきた息子と庭の花を5種類ほど選ぶ。それも、アナベル、紅、富士の滝(以上アジサイ)、ホタルブクロ(赤)、しもつけ草、1人娘という珍しい花ばかり。バラは刺があるから避けたという。それを2つ花束にしてデズニーの包装紙に包み、息子が急いで持ち帰った。孫2人が花束を大事に抱えて保育園の先生に差し出す姿が想像され、こちらまで楽しい気分になった。後から礼の電話を掛けてきた嫁の話では花は1本づつでも良かったらしい(笑)。それにしても、保育園も味なことをする。キリスト教系だからかもしれない。「息子の時も、そんな行事があった気がする」と家内。息子と同じ経営の保育園だから、多分そうだろう。でも、花のない家はどうするのだろう。花屋かスーパーで調達するのか。野山の花を積んで持って行くのか。ともかく、園児に花に触れさすことはいいことである。花は美しいし、心を和ましてくれる。いまわが家の庭は、幾種類かのアジサイが咲いている。梅雨に良く似合う。しっとりと健気で競うという気負いがないのもいい。対照的なのは、バラやハイビスカスである。真赤な花びらを誇るように咲かしている。特にハイビスカスの活力はすごく、秋口まで毎日咲き続けるからすごい。近所の理髪店のご主人から家内が苗木を貰って育てたものだが、ご主人も、わが家のハイビスカを眺めてニッコリ。花好きな家内は、花をよく貰ったり、あげたりする。家の花の半分以上はそうである。貰った花、あげた花が家々に広がっていく、これもいい話である。しかし、こういう花の交流も、高い年代に限られるようである。今の若い人は、花にはあまり興味がないようである。単に面倒臭いだけなのか、子供の頃から花を育てる経験が乏しいからなのか、共稼ぎで忙しいせいなのか、テレビ、パソコン、スマホに時間を取られているせいか。よく分からないが、はっきりしていることは、女主人が花好きであることが1番の条件であるようだ。一言で花づくりと言っても、体力と根気がいる。私の家の場合、家内の力がすごく大きい。私は庭木には興味はあったが、花にはあまり関心がなかった。だからよそ様のことをあれこれ言う資格はない。花好きな家内で良かったと思うだけである。(2021・6・14UP)

 

    

 

「江夏の21球」

動画サイトを探っていたら、「江夏の21球」というのがあった。過去の収録番組である。1979年の広島カープと近鉄バファローズが3勝3敗で迎えた日本シリーズの最終回に広島の江夏豊が投じた21球の解析ドラマである。当日私は車で仕事に出掛け、ラジオで聴いていた。4対3で迎えた最終回の優勝が決まる時は、空地に車を止めて試合に集中。1球1球の重さが伝わり、胸の高鳴りを抑えきれなかった。アナウンサーも状況を克明に伝えていた。球場の興奮、ベンチの動き、監督の表情、選手たちの緊張した空気が感じられ、固唾を飲んで聴き入った。初回打者がヒットで出塁、代走が2塁に盗塁し捕手の送球が逸れて3塁を奪う。次の選手が四球で出て代走に変わる。代走が2塁盗塁に成功。次の打者が敬遠気味の四球で出て、ノーアウト満塁の大ピンチ。仁王様のような江夏の面相が浮かぶ。次の打者を3振に仕留めるも、満塁のピンチは変わらない。球史に残る奇跡のドラマは次の打者の時に起きた。近鉄ベンチは、同点を狙ってスクイズのサインを送った。江夏はゲッツー狙いのカーブを投げた瞬間、コンマ何秒で打者のスクイズを見破り暴投気味のストレートを投げた。打者のバットは空を切りスクイズは失敗。ホーム近くまで走っていた3塁走者も塁上でタッチアウト。打者も江夏の鋭いカーブに三振を食らう。この瞬間、広島カープは球団史上初の日本シリーズを制覇する。車の中で、「やったー!!」と大声で叫んだことは言うまでもない。仕事を早目に切り上げ、帰宅の途に就いた。テレビに映し出される広島の繁華街はお祭り騒ぎ。今回映像で「江夏の21球」を見て、その時の江夏の投げた1球1球の重さをより感じることが出来た。当時の大阪球場が雨模様であった、近鉄の西本監督がベンチを飛び出し打者1人1人に細かい指示を与えていた、広島の古葉監督はベンチの奥で2人のコーチと立ちっぱなしであった、早くもグランドに祝福テープが投げ込まれるなど近鉄ファンの熱気がすごかった、1塁の衣笠が再三江夏に近寄り励ましの声を掛けていた、江夏が飛び上がって捕手に抱きついた、など映像だから分かる場面も多くあった。江夏が投げた21球は、江夏の野球人生の集大成であっただろう。1球1球に磨かれた技と魂が込められていた。そして古葉監督と西本監督である。西本は選手時代にスクイズ失敗の苦い経験があったにも関わらず、1番大事なところでスクイズ策を取った。比べて古葉監督はクールに徹していた。それが勝敗の分かれ目であったと思う。以後、西本は「悲運の名将」と呼ばれるようになったと記憶する。(2021・6・12UP)

 

 

ああやだ

「今日は何曜日だったかな」と迷うことはしょちゅうで、先日などは1週間は6日だったか7日だったか一瞬分からなくなった。これは正直ショック。しかし、よくよく考えると、2年前に仕事を辞めてからは毎日が日曜日みたいな生活を送っているので、おそらく脳も怠けているのだろと、思うことにした。曜日が考えられたのは、労働や安息など人間の生活リズムと関係があったのだろう。でも待てよ、そう安心していいものか。その日の曜日が分からず、昨晩食べたおかずが思い出せず、孫の名もすぐ口から出ずなど、「ず」が増えていくにつれて、ホンモノのボケ老人になる可能性はある。ああ、やだ、やだ。私と家内、どちらが早くボケるかという問題もある。1つ違いだから、同時にボケることもありうる。ボケが怖いのはボケが怖いことを自分では認識できないことである。周りからしてもえらい迷惑な話である。ボケの進行を遅らせる手立てはあるのか。確実とは言えないが、手に仕事を持っている職人、毎日お経を読むお坊さん、芸術家やモノを書く作家、研究に没頭する学者、遊びや旅行をよくする人、友達付き合いの良い人などは、割合ボケない人が多いように見受けられる。手や頭や身体をよく使う人たちである。ウチの家内はよく働くし、毎日食事も作るし、人付き合いもいいし、手芸や園芸が趣味で、新聞のクロスゲームもマメにする。私はと言えば、癌手術の後遺症もあって自由勝手に動くこともままならず、毎朝2時間程度パソコンに向かい、自分のホームページに下手な文章を書くか、週2、3度港に出て1時間程度釣りをするぐらいが関の山である。どう考えても私の方がボケるのが早い気がする。やがては、有吉佐和子が描いた「恍惚の人」のような変なボケ老人になってしまうのか。ああ、こわ。昔の老人はボケる割合が少なかったという話を聞くが、これは単に寿命が短かったせいもあるのだろう。ボケる前に亡くなるのだから始末はいいが、今はそういう訳にはいかない。80,90は当たり前で、廃人同然になっても生かされる時代である。あれこれ考え、ボケにも程度があって、半ボケの状態で周りにあまり迷惑を掛けずに生きることに重きを置くことにする。ボケの進行を遅らせるために、新聞や本をよく読もう、適度な体操と運動をしよう、週に何回かは血液サラサラの魚を食べよう、家事の手伝いをしよう、たまに旅行にも出掛けよう、とあれこれ考える。そこで、またふと心配が浮かんだ。いまだ出口の見えない新型コロナウイルスという厄介なヤツである。全国的に見て、不安と自粛のストレスでボケの進行が早まっているのではないか。私もその1人?。ああ、やだ、やだ。ちなみに「やだ、やだ」は、孫の口癖である。それが遷った(苦笑)。(2021・6・10UP)

 

 

ナショナリティ

全米女子プロゴルフで笹生優花選手が、畑岡奈紗選手とのプレーオフを制して優勝を飾った。19歳の最年少記録である。笹生選手は日本人の父とフイリッピン人の母の間で生まれた二重国籍を持つハーフで、今回はフイリッピン代表として出場したようである。WOWOWの日本向け放送では、メンバー名の頭に日の丸が付いていたが、国際放送ではフリッピンの国旗が付いていた。優勝インタビューも、笹生選手は英語とフイリッピン語で話していた。大会記録も、フイリッピンのプロゴルファーとして名前が刻まれるはずである。日本人としてちょっと残念な気もするが、ナショナリティとはそういうものである。以前、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロも日本生まれの日本人であったが、子供の時に両親と英国に渡り、帰化して英国人になった。日本のマスコミは、日本人が受賞したような報道の仕方をしたが、ルーツが日本人の英国人である。ナショナリティは帰属する国籍を示すものだから仕方がない。米国籍のプロゴルファーは、白人系、黒人系、ヒスパニック系、アジア系、ハーフ系と実に様々である。ナショナリティが基本の国であることがよく分かる。そんな中で、民族性を打ち出して活躍をしているのが韓国のプロゴルファーである。勝利に強く拘り、韓国人の名を高めることに、組織と国が全面的にバックアップしている。数々のメジャー大会を制覇し、各トーナメントの上位を韓国勢が占めるという異常事態が生じた。米国のプロゴルフ人気が下がりスポンサー離れが起き、事態を重く見た米プロゴルフ協会は韓国選手の数を制限する方策を試みるも、「人種差別」の批判が出て、取りやめになったという経緯がある。過ぎたるは及ばざるが如しで、あまり民族性帯びたナショナリティを持ち込むのもどうか。その点、日本選手はそういう感じがない。子供の時に父親からゴルフを習って、練習場で腕を磨き、各大会で優勝し、プロを目指してプロテストに合格し、トーナメントの出場資格を得るという流れが一般的である。ゴルフが好きというのが大前提にある。日本人を強く意識するとか、国を背負うという感じはあまりしない。そんな中で、2年前の渋野日名子選手の全英女子オープン、今年のマスターズで松山英樹選手が優勝を果たした。階段を1歩1歩着実に上っていたら、世界レベルに達したという印象である。わずかに感じた笹生選手の日本人らしさは、帽子のキャップの端に金色に刻まれた武士道を示す「刀」の一文字であったが、控え目で恰好良いと思った。(2021・6・8UP)

 

 

マスコミ対個人

 全仏オープンで大坂なおみ選手がとった行動が大きな波紋を広げている。記者会見を体調不良を理由に欠席。主催者側は規則違反として罰金を科し、今後の出場資格にも言及する強い態度を示す。大坂選手はこれを主催者側の理解の薄さと判断して試合を放棄した。大坂選手は黒人差別抗議など社会活動に積極的であったから、含みのある行動とも読み取れる。今回はアスリートとマスコミの関係性が浮き彫りになった。大坂選手は自身のSNSで全米プロで優勝した頃からうつ状態傾向にあったことを公表。本人は人前で喋ることが大の苦手で、マスコミを相手にどううまく対応すればいいのか思い悩んでいたらしい。グランドスラム4勝のテニスの女王はまだ若干23歳である。メンタル面を指摘する声もあるが、正直な告白と受け取るべきであろう。これに関連し、英国王室のダイアナ妃のことが浮かんだ。平民から皇太子妃に選ばれた時から世界中のマスコミの注目を浴び、あることないことが報道され、悩み苦しんだ末に離婚を決意し、民間人に戻ってからもマスコミに追われ、最後は不慮の交通事故で亡くなる。もう一人、英国のプロサッカー選手のデビッド・ベッカムも浮かぶ。顏もスタイルも良く、世界中で絶大な人気を集めた。マスコミもスター並に扱ったが、本人は英国紳士風の優等生イメージを捨て、頭をモヒカン刈りにし、派手な刺青を彫り、交通違反も犯す。その後も映画俳優に挑戦するなど自分流を押し通したが、後に「強迫性障害を抱えていた」と告白している。実像と虚像の板挟みに苦しんだ様である。マスコミは多様性を唱える割には、型に嵌めようとする傾向がある。大衆受けするニュースは、マスコミにとって大切な飯のタネであるが、問題は取り上げ方である。良い時は持ち上げるが、悪くなると叩くという極端な二面性がある。1流は責任と義務を弁えた人間でなくてはならないというのも、マスコミが作り上げた偶像である。取材を受ける側からすれば大きなプレッシャーになる。その点、昔の映画スターもスポーツ選手も割合気楽であった。いい加減なところがあっても、表舞台で活躍してくれればいいと、大衆も大目に見ていた。今はそういう訳にいかない。商業主義と結ぶ付くマスコミの力が強くなり過ぎたのである。マスコミによって実像と虚像の世界が作り出され、亀裂が生じるようになった。マスコミは味方なる一方で敵にもなる両刃の剣である。マスコミの扱い方次第である。個人の意思と立場をもっと尊重すべきだろう。次の全米プロではありのままの姿の大坂選手の活躍が見たいものである。(2021・6・6UP)

 

 

邪馬台国論争

先日、何気なしにテレビを見ていたら、邪馬台国をテーマにした論争番組をやっていた。途中からであったが、5.6名の学者たちが大きな円卓を囲みロマン漂う論争を繰り広げている様子に、考古学には縁遠いが、興味をそそられた。論争の焦点は、2世紀から3世紀の日本列島に存在したと言われる邪馬台国の本拠地が近畿か九州かと、邪馬台国の女王とされる卑弥呼の実像についてであった。基準になるのは、中国の正史「三国志」に書かれた「魏志倭人伝」の内容と日本各所で発掘された遺跡群と埋蔵品である。学者間で見解の相違はあるが、これまで発掘された日本全国の遺跡群、埋蔵品から邪馬台国が全国30ヶ所ぐらいの小国の象徴的な存在であったという認識は共有しているようであった。それも絶対勢力が他を支配するのでなく、中央と地方が共存するという、いわば地方分権制のような形態であったようである。それは、その後の日本の歴史の流れを見ても、腑に落ちることであった。同時に私は、魏志倭人伝の内容の信憑性にいくつか疑問を抱いた。三国志は中華思想を反映するものであり、魏志倭人伝は周辺に点在する化外の国々を低く野蛮に見る視座は当然ながらあっただろうと推察する。例えばそれは、日本人を示す倭人の「倭」、国を表す邪馬台国の「邪」、支配者の名の卑弥呼の「卑」という印象の悪い文字が当てられていることからも窺える。三国志は西晋の陳寿が書いたとされるが、魏志倭人伝の編は曹操の子の魏王の権力を忖度した敵情視察風に書かれた可能性もある。陳寿が直接見聞したものでなく、海から伝わりくる情報を掻い摘んで書かれたものではないか。事実、魏志倭人伝には辻褄の合わない箇所もいくつか指摘されているようである。卑弥呼という女王の存在も、何となくうさん臭く思える。秘密のベールに包まれたシャーマンのような女性像は、日本の女性のイメージからかけ離れている。両性具備した超然的なカリスマ性は、むしろ外国の魔女に近い違和感を覚える。穿った見方をすれば「邪馬台国は巫女が支配する国、怖れるに足らず」の甘い観測が込められているのではないか。以前、佐賀県の筑紫平野にある弥生時代の吉野ケ里遺跡を見学したことがあるが(P16)、その場に立って感じた空気は平和で豊かということである。現代人の私もそうだから、当時の稲作文化を持つ古代人は、豊穣の地、安住の地、文化を編み出せる地と感じたに違いない。今後、天皇陵の発掘を含め、日本独自の発見と調査で古代史の謎が解き明かされていくことを願う。(2021・6・2UP)

 

吉野ヶ里遺跡 *ウィキベディアより

 

朝の来ない夜はない

 家の前の道路を新品のランドセルを背負った小学生たちが数人連れだって通う.朝夕全員きちんとマスクをしている。健気で可哀そうに見える。仲間と大きな声で喋りたいだろう、笑いたいだろう。それも思うようにはできない。その光景だけを見ても、早く新型コロナウイルスが収束して欲しいと願う。日本でも、遅ればせながらワクチンの集団接種が始まった。医療従事者が第一優先というのは分かるが、次が高齢者というのが分からない。重症化しやすいというのが理由のようだが、感染リスクは日常の生活態度からして高齢者は低いのではないか。むしろ働き盛りの年代を優先するほうが効果的ではないかと思える。ネットで調べると、米国も英国も医療中の高齢者と介護施設の入所者は最優先しているが、その後は一律50歳代以上を対象にしているようである。重要視しているのはスピードである。米国では、全員が早く接種出来るように無料交通券や5億円当たる宝くじまで用意している。また、英国ではワクチン注射に薬剤師まで投入しているが、日本では採用されていない。今後の不足を想定し、薬剤師、医学生、看護学生の応援を頼む必要があるだろう。今日現在の日本の接種率は2.4%、これは世界で129位、OECD加盟国の中で最低である。あの武力弾圧の続くミャンマーの3.2%より低いという。東京五輪・パラリンピックの開催国に関わらずこの対応の遅れ惨めである。日本の縦割り行政、前例主義、縄張り意識、責任所在の不明確さによる危機管理の甘さの表れとも言える。各地方自治体の感染率に差が出るのも無理もない。更に心配されるのは混乱である。予約が取り難い、二重申込み、注射師の不足、集団接種場所の確保などの問題が起きているようだが、これはどの国でも大なり小なり起きていることで日本も機敏に対処しないといけない。世界中の人がワクチン接種するという事態は、人類史上初めての経験であろう。難しさは当然あると思うが、目的達成のために今出来る最善の努力をしてほしい。人間の歴史はウイルスとの戦いでもあった。これまで人間は一つ一つ克服し、乗り越えてきた。今回のコロナ禍も、後の世の人から見れば、「当時の人は大変だったな」と語られる程度のものになるだろう。地球上からウイルスが消えない限り、これからも戦いは続く。その歴史の一コマに遭遇したことを特別不幸とは思わない。「朝の来ない夜はない」「災い転じて福となす」に希望を託し、小学生たちの元気な声や明るい笑顔が見られることを待ち望むばかりである。(2021・5・31UP)

 

 

ユリの花

先週金曜の黒柳徹子司会の「徹子の部屋」に、吉永小百合さんがゲスト出演していた。手作り風の黄色いドレス姿で登場、スタジオが一気に明るくなった。相変わらず品があり若くて美しい。今回は自身主演の新作映画「いのちの停車場」のPRも兼ねているようであったが、吉永さんのこれまでの女優人生のことや、亡き両親の思い出話が中心であった。吉永さんは私と同じ昭和20年生まれで、学年は1つ上である。東京大空襲の時に生まれたとのことである。乳呑児を抱えた母親が、戦禍の中で闇牛乳を買い求めるため苦労した話もされていた。栄養不足で母乳があまり出なかったようである。そのせいか、小さい頃の吉永さんは病弱であったという。当時の写真を見ても、そんな感じである。東京大学を出て外務省に勤めていた父親が事業を始めたが失敗し、家族は貧乏生活を余儀なくされる。長女の吉永さんは新聞配達をすると申し出るも母親に止められ、親戚の勧めで映画撮影所で子役のアルバイトを始める。役が付けば1万から2万貰えたというから当時としてはかなりの額である。中学生になり「ガラスの少女」で初の主演女優を演じ、名作「キューポラのある街」で一躍日活の看板スターになる。キューポラで描かれた父親が失業した貧乏家庭の中学生役は実体験でもあった。戦後のあの時代は、子供も大人もいまでは想像できない貧乏と苦労を経験している。餓死者、浮浪者、孤児は全国中にいた。懸命に生きることだけが生きる術であった。ドン底から這いあがった人間が強いのは、上しか見ないからである。その意味では、司会の黒柳徹子さんと同様に吉永さんも負けん気と欲の強い人である。今もストレッチや水泳で身体を鍛えているという。今の若い女優さんにも見習って欲しいが、吉永さんの女優魂は映画産業で培われたものである。当時は女優を大事に育てるという恵まれた環境があった。映画5社は看板女優をそれぞれ抱え、男優以上に優遇していた。看板女優主演の映画も多かった。そのプライド意識は今とは比較にならないほど大きかった。その銀幕を飾った女優さんたちも次々に消え、今や吉永さんを入れてごく僅かである。しかも吉永さんのような映画主演のチャンスはないに等しい。吉永さんの偉さは、時代に阿ることなく、美貌と若さを保ち、自然体で女優人生を歩んできたことである。私がファンになったのも、吉永さんのその凛としたユリの花のような生き方に共鳴したからである。番組最後に吉永さんはこれまでやっていない役も演じたいと語っていた。その飽くなき挑戦に乾杯である。(2021・5・29UP)

 

 

米国と日本の差

米国が制作する映画は危機を扱った作品が多い。戦争、テロ、自然災害、環境破壊、疫病など枚挙に暇がない。米国のこの過敏な危機意識は、米国は世界一優秀な国であり、常に指導的立場でなければならないという自負があるのかもしれない。事実、米国の国家組織は危機管理がベースに置かれている。因みにコンピューターのインターネットシステムの開発も米国防相(ペンタゴン)の危機管理が起点にあった。今回の新型コロナウイリス対策における米国の主要機関は、同時多発テロの2001年に創設された国土安全保障省と言われている。この機関の迅速かつ適切な働きが功を奏したようである。日本の数倍の感染者、死亡者を出した米国の悪状況を一気に改善させた。先日行われた全米プロゴルフ選手権で優勝を飾るフィル・ミケルソン選手を取り囲む数千人のギャラリーはほとんどマスクをしていなかった。18番ホールを埋め尽くすギャラリーの興奮は新型コロナに打ち勝った米国民の喜びの表れでもあったように見えた。米国が改善した1番の要因はワクチンである。ワクチンは、米国と英国の官民共同の研究所が世界に先駆けて開発したものである。既に全国民の接種を終え、余ったワクチンを移民や隣国に回すほどの余裕である。いかに米国が優れた機能組織を持っているかが分かる。日本はどうか。遅れを取っているだけでなく、今も感染者は増加傾向にある。学者や首相や知事が、オウム返しのように注意を促すのが関の山である。日本は完全に敗戦国である。米国からも最警戒国と烙印を押される始末である。原因を考えると、日本の危機意識の乏しさと、旧態依然とした制度、組織の弊害であるように思える。「平治において乱を忘れず」「備えあれば憂いなし」という教訓があるが、戦後の占領政策によって日本人の国家・国民意識が希薄なっているのかもしれない。危機管理の重要性が分かっていながらも、実際が伴っていない。米国と英国の世界における優位性はアングロサクソンの忠誠心に基づく組織力にあると考えている。個々の能力に差はなくても類稀な組織力で大きな成果を生み出す。政治家、官遼のレベルに多少差はあったとしても、本気になれば日本は出来る国である。問題は、日本の政・官・民の共同体組織がうまく機能していないからである。日本は依然として官僚主導であり、それが最大の欠陥である。その官僚主導も、専門者会議とか諮問会議を設けて責任から距離を置こうとする傾向がある。今度のデジタル省の創設にしろ、全てにおいて日本は米国と比べて10年は遅れていると思う。(2021・5・27UP)

 

 

再び中国時代劇

BS12で放送された中国時代劇「瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃」の面白さに嵌った話は前に書いた(P63)。それが終了し今はBS11の「如懿伝〜紫禁城に散る宿命の王妃」に再び嵌っている。内容は、「瓔珞」と同様に清王朝の乾隆帝時世の王宮・紫禁城を舞台にした皇帝を中心に皇太后、皇后、側室、家来たちの姦計謀略渦巻くドロドロとした人間ドラマある。毎回ハラハラドキドキの連続である。「瓔珞」は、卑しい出の娘が王宮の侍に殺された姉の仇を取るため下女として王宮に入り込み、復讐を果たした後も持ち前の才覚で宿敵をことごとく排除し、最後は皇后に上り詰めるサクセスストリーであった。今度の「如懿」は、皇帝とは幼い頃から愛し合った仲の名門出身の女性が、腹黒い側室たちの罠に嵌って冷遇に陥れられ、その苦難を乗り越え皇后の地位に就くが、なおも不幸や悲劇に巻き込まれるという展開である。上記2人の主演女優の容姿、性格も大きな違いがある。瓔珞は愛嬌のある庶民的なイメージ、如懿は知的で気高いイメージである。瓔珞は孤軍奮闘する努力家、如懿は皇帝の絆と配下の味方を巧みに利用する策略家である。乾隆帝演じする2人の男優も姿形は似ているが、「瓔珞」は人間臭くて親しみ易く、「如懿伝」は権力欲が強く複雑である。それはドラマの先行きとも関係するようである。中国時代劇は、「瓔珞」の時にも述べたが、スケール、パワー、技術のレベルが高い。俳優も粒揃いで、性格設定、演技も素晴らしい。全ての俳優が適材適所に収まっている。ドラマの筋立ても複雑かつ緻密で、場面も衣装も豪華で、細部に至るまで金の掛け方が凄い。中国色を全面に打ち出し、真似たりや媚びたりしたところが一切ない。まさに中華思想そのものである。国が制作する映画ドラマにはプロパガンダの要素があるが、中国時代劇は世界に発信され、一時期の韓流ドラマのように人々の心を惹きつけているに違いない。現に私がそうで、こんな中身の濃い中国時代劇を見せられたら、変わり映えしない安っぽい日本の映画ドラマは見る気もしない。アジア最大の観光都市のタイ・バンコクの人たちは、日本人、韓国人、中国人を簡単に見分けるという。姿勢、服装、仕草、言葉使いで分かるという。国柄や国民性は隠しようもないようである。果たして日本人はどう映っているのか。親しみ易さはあるが軽く見られているのではないか。(2021・5・25UP)

 

 

プロ野球監督

 日本プロ野球が正式に発足したのは1936年。これまで多くの名監督が存在した。記憶順で言うと、水原、三原、鶴岡、川上、広岡、森、藤田、野村、長嶋、王、西本、上田、古葉、落合、星野、工藤、栗山、原、緒方(いずれも有名につき名は省略)が浮かぶ。一際記憶に残る監督は、三原マジックと呼ばれた三原、ドジャース戦法を取り入れた川上、選手と監督の2役を勤めた野村、粘りの野球を見せた藤田、広島に念願の初優勝をもたらした古葉である。「名選手、必ずしも名監督ならず」というが、名選手の監督もかなりいる。それぞれに監督に選ばれるだけの実績と人格を備えていた。組織論、リーダー論で言えば、プロ野球は教科書である。球団全体の総合力が試される。成績が低迷し、観客が減少すると、どの球団もまずは監督の入れ替えを計るのが常である。指揮官として任命された新監督は、自分のコーチスタッフを整え、選手の育成と戦力の強化に努める。大事なのは、監督のポリシーである。どういう野球を目指すのか、勝利に結びつく戦略をどう組み立てるのかの手腕が問われる。ポリシーに一貫性がないと、チームワークは乱れる。監督と選手の距離は遠過ぎても近過ぎてもいけない。知略と我慢が必要である。結果が全ての世界だから情け容赦はない。「名君の下には能吏が生まれる」の例え通り、名監督の下では優れたコーチとヒーロー選手が誕生する。それがプロ野球の醍醐味でもある。V9を達成した川上監督が意外と評価が低いのは、長嶋、王の2大スターの存在が目立ったせいである。野村監督の人気が高いのは、無名選手や新人を育て、データを駆使して勝利に結びつけたからである。観客は新人選手の活躍を喜ぶ。球団の躍進が期待できるからである。表舞台は選手が活躍し、監督は陰の立役者でなくてはならない。広島の監督で言えば、阿南、古葉、緒方がそうであった。反対が巨人の長嶋、王、原である。常に極光を浴び、常勝という重荷を負わされている。現在注目しているのは阪神の矢野監督である。球団との信頼、堅実な試合運び、選手の起用法、新人育成、コーチ陣との連携などオルガナイザー的な力を発揮している。「阪神は生まれ変わるかもしれない」と感じさせる。地味な智将という印象である。それが結果に出ている。今年のセリーグ優勝は阪神と予想する。比べて広島の佐々岡監督が気になる。ポリシーが不明確で、場当たり的な印象を受ける。勝を焦るためメンバーも日替わりメニューのようにコロコロ替える。このままだと、以前の弱い広島に戻りそうで、心配である。(2021・5・21UP)

 

 

遺伝子

 小さい頃から父親似と、よく言われて育った。自分でもそうかなと思い、照れ臭ささを感じた。歳を重ねるうちに、母親似の面もあるなと感ずるようになった。両親の血を受け継いでいる訳だから、別段不思議なことではない。どこが似ているかと言えば、性格面である。母親は我が強く感情の起伏のある人であった。好き嫌いがはっきりしていた。比べて父親は感情の起伏の少ない穏やかな人であった。良く言えば大人風。それは日々の生活態度にもはっきりと表れた。母親は何事に対しても積極的で挑戦的であったが、父親は保守的で傍観的であった。たまに母親がヒステリーを起こしても、「女性特有の病気」と言って相手にしなかった。私が父親の性格を受け継いでいたら、違った人生を歩んだかもしれない。長く営業畑の仕事をしてきたが、父親にとっては不向きであったはずである。活動、商談、駆け引き、お世辞なんて、あの父親からは想像も出来ない。その面は母親の性格に似ていると思う。身体的にも、母親の丈夫さを受け継いでいるのかもしれない。後期高齢者になった今も目も耳も歯も足腰も普通である。内臓も61歳の時に早期の直腸癌の手術を受けた以外はいまのところ問題はない。日々の感情の起伏も母親に似て1晩寝ればケロリと忘れるタイプ。家内から「お父さんのいいところは、後を引きずらないところね」と皮肉られるほどの単純さである。良い悪いは別にして、母親似は得な性格である。周りはイライラ、カリカリしても唯我独尊(苦笑)。母親と似ている面はその程度だが、人生にとっては大きなファクターである。子供は両親から受け継いだ遺伝子を、自分の人生にどう生かすか、その遺伝子をどう進化させていくか。大袈裟に言えば、人類の進化のメカニズムにも繋がる。繁栄する遺伝子と衰退する遺伝子があるとすれば、それは生命活動における環境的条件も大いに関係することだろう。適合という面においては強靭性と柔軟性が必要であろう。両親の相反する遺伝子の相剋によってまた新たな遺伝子が生まれてくるはずである。自分にも父親と母親とは全く異なった新たな遺伝子を持っているはずである。それが子に孫に引き継がれ、新たな遺伝子が生産され続ける。遺伝子である細胞核の染色体に組み込まれたDNAは、生命が受け継がれて続く限り進化していくはずである。まさに生命の神秘である。ところで、私には4人の孫がいるが、男の子の孫は2人とも相手の父親にそっくりである。自分に似ていたら変な気分だろうし、新たな可能性が期待できるように思う。(2021・5・19UP)

 

 

母と幸福

百歳丸々生きた母の口癖は、事ある毎に「あ〜、天国、天国」、「私ほど幸せ者はいない」であった。これは若い頃に思想入門書として読んだアランとラッセルの「幸福論」と相通ずるものがある。幸福は自発的で主観的なものである。また、ショーペンハウエルが「幸福について」の中で述べている「目先の環境に振り回されるのをやめ、すべては空しいと諦観することで、精神的な落ち着きを得るべきである」とも多少繋がる。人生は四苦八苦と呼ばれ、普通であれば不幸である。それに捉われている間に、貴重な時間は通り過ぎて行く。ある程度の割り切りや運命に身を委ねる覚悟も必要である。ヒルティが語る神に身を捧げて幸福を得るのも1つの手段である。以上の西欧式幸福論は、キリスト教と個人主義に基づくものである。日本の場合は、元から幸福という概念そのものがなかったらしい。明治の文明開化から西欧の思想・哲学の書物が流れて来て、幸福という言葉と意味が徐々に一般に広まったようである。それまでは、満足とか喜びとか安らぎとかという曖昧なものであった。対象と個人を対峙させる思考に不馴れだったせいもあるかもしれない。日本人は、聖徳太子の「和を以て貴しとす」や武者小路実篤の「仲良きことは美しきかな」に象徴されるように、人間同士が仲良く生きることが善なりという考え方がベースにある。それも真理であって、幸福には和顏愛語(優しく人と接する)、自利利他(自分と他人の利益は同じ)、相互扶助(助け合い)の要素も含んでいる。周りが不幸な状況において、自分1人が幸福に浸ることはなかなか難しい。愛情や環境も左右する。「幸福になりたい」とは誰しも願うことだけれど、幸福の中身や尺度もまちまち。成功者や金持ちが幸福とは限らない。幸福には身分の格差はない。人はそれぞれ自分の才能や境遇に合わした世界を持っており、幸福を導く努力はその中で発揮されるべきものである。絵に描いた餅が棚から落ちることはない。チルチルミチルの「青い鳥」の通りである。その意味では、私の幸福は皮相家ショーペンハウエルに近い。ラッセルの道徳的な幸福は少々しんどいが、アランの幸福は健全な身体に伴う心が必要という条件的立場は理解する。母の幸福の原点は、まさにそれであった。常に明るく元気であった。気の強さの中に品を備えていた。不幸を吹き飛ばし、幸福を手繰り寄せるパワーを持った女性であった。戦後台湾から引き揚げてどん底からスタートしたわが家族を明るく照らした太陽のような人であったと、つくづく感謝する。(2021・5・15UP)

 

 

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