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父追憶

 先日50回忌を終えた父と私は同じ9月生まれであった。タバコが大好きで、仕事中も口から離さなかった。ときおり咳き込んでいた。それでも、同じ仕事場で働いていた母が、「タバコを止めて」と言うのを聞いたことはない。父の愉しみを奪いたくなかったのだろう。体調変化でレントゲン検査を受けた時は、既に肺がんの末期に近く、入退院を繰り返した後、62歳の時に帰らぬ人になった。棺桶に好きだったタバコを詰めたのを覚えている。今の医療ならとも考えるが、それもそう長くはなかっただろう。戦後台湾から引き揚げてすぐに洋裁業を開業したが、亡くなるまで働き詰であった。しかも洋裁という仕事は一時も気の抜けない仕事である。タバコが慰めの面もあった。そんな父であったが、実際は趣味豊かな人であった。カメラ、俳句・川柳、花づくり、映画、釣り、囲碁など。カメラは、当時最新の二眼レフを保有、俳句や川柳を新聞に投稿し掲載され、花づくりは専門家並であった。特に大輪の朝顔,菊の段作りは見事で、店頭に飾って道行く人の眼を楽しませた。観た映画の話を聞かせてくれることもあった。囲碁は町内で屈指の腕前であった。実はストリップショーも好きで、亡くなる前の一時期パチンコに嵌ったこともある。こればかりは母も心配した。干潮時の海老獲り、魚釣りも得意であった。忙しい合間に息抜きのように、それなりに自分の趣味を楽しんだ人でもある。夕食時には晩酌も欠かさなかった。酔ってうたたねした後、夜10時近くまでまた働くのが常であった。不思議と本を読む姿を目にすることはあまりなかった。嫌いな訳ではないだろうが、仕事以外に目を酷使したくなかったのだろう。それでも、世事に通じて教養は高かった方である。ある時、私が生意気に「浅学でして」を口にした時、「浅学は、学問の優れた人が謙遜していう言葉で、子供のお前が使うべきではない」と注意された覚えがある。手紙やはがきの文字を見て、相手の学識を計るところもあり、父を通して大人社会の奥深さを感じたものである。でも今でも変に思うのは、「よろず相談所」という札を店の看板の横に下げたことである。いわば人生相談であるが、ついぞ相談に訪れた人を見かけたことはない。あれは明らかに父の勇み足であった。父にしてみれば、悩んだり困っている人の手助けのつもりだったのであろう、と好意的に解釈するだけである。色々思い出を振り返ってみて、寛大で優しかった父が70,80まで生きていれば、もっと父の魅力に触れたかもしれないという思いはある。天国の父よ、安らかに。(2020・9・12UP)

 

 

父50回忌

先月初め、千葉の菩提寺から、山口の実家に父の50回忌の知らせが届いた。9月は父の祥月命日、私が24歳の時に肺がんで亡くなった。享年62歳。電話やメールで話し合って、東京で暮らす亡長兄の姪の夫婦が代表して菩提寺に参り、50回忌の供養することに決まった。姪は貿易商社の通訳として勤務し現在テレワーク中、夫はプログラマーで時間が自由に使えたこと、自宅から3時間で行けることもあったが、快く良く引き受けてくれた。昨日、姪より無事済ませたとの連絡が入った。わが先祖の眠る墓地には親族の各名前を記した卒塔婆も立てられていた。現在では50回忌をする家は珍しく、33回忌の時に供養納めをする場合が多いようである。わが家の場合は、33回忌は山口の実家の日蓮宗のお寺でしたので供養納めをしなかった。50代の頃、母の亡父の50回忌を母と私と家内の3人で、母の広島の郷里のお寺でしたことがある。母の兄姉は既に亡くなっており、末っ子の母だけが健在であった。母は「自分1人だけでも、50回忌が出来て良かった」と喜んでいた。正直、その時始めて50回忌まであることを知った次第である。人の寿命は延びているが、親族がばらばらに遠く離れて暮らし、歳を取ると集まること自体が難しい。今回も、姉も妹も参列したかったようだが、コロナの件もあり、断念せざるを得なかった。ともあれ、姪夫婦のお蔭で父の供養納めを無事済ますことが出来た。ところで、わが家の親族は女性を中心にライングループを作っており、何かあると交信し合っている。甥や姪、イタリア人と結婚した長兄の姪も加わり、賑やかである。家内からたまに見せてもらうが、中には吹き出す内容もあり、繋がりがあって面白い。今回、姪に墓に刻まれた家紋を写真に撮って送って欲しいと依頼した。「丸に三つ柏」というのは分かっていたが、再確認したかったからである。送られてきた写真を見ると、やはりそうであった。三つ柏は伊勢神宮とも縁のある由緒ある家紋である。神に捧げる食事は柏の葉に載せて供されるが、それを司る神職が付けたものらしい。それに丸が付くのは、その傍系という。それ以上の経緯は分からない。あと、私の苗字に付いている「土」に「﹅」についてである。今は土をそのまま使うが、父の代までは書くのも印鑑にも土に﹅を用いていた。ある時父に訳を聞いたことがある。父が言うには格を意味するものらしい。父や叔父は﹅を誇らしく思っていた。正和3年(1314年)に創立された千葉の菩提寺には他に同じ苗字の古い墓が多く並んだ一角がある。氏族の往時の繁栄を物語る。(2020・9・9UP)

 

 

 

最高の人生

 まだ先があるのと、もう先がないとでは、生き方も差があるだろう。若い頃は、「あれも、これもしたい」という欲望が勝るが、歳を取るにつれその欲望も薄れてくる。人間は歳に関係なく、「あれも、これもしたい」の欲望がある方が、幸せと言えるかもしれない。2007年に公開されたハリウッド映画「最高の人生の見つけ方」は中年過ぎの2人の男が、その欲望に挑戦する物語である。黒人の名優モーガン・フリーマン扮するベテランの自動車整備工と、怪優として名高いジャック・ニコルソン扮する不幸な生立ちから富豪になった実業家が、同じ病気、同じ病室、同じ時間に余命6ヶ月を宣言される。最初反目し合っていた2人が、同じ運命を境に仲良くなり、残りの人生で自分たちの「やりたかったリスト」を作成し、それを実行するために病院を抜け出し、冒険の旅に出る。そのリストには、スカイダイビング、世界一の美女とキス、カーレース、泣くほど笑う、見知らぬ人に親切する、荘厳な景色を見る、入れ墨をする、ピラミッドを見学する、香港に行く、エレベストに遺灰を置くが書かれている。冒険資金は実業家が余るほど持っている。やりたかったことを存分に楽しむ2人だが、すぐ先に死が待ち受けている。観る側としては複雑である。単なる八方破れの享楽主義ではないか。映画はそんなことはお構いなしで、2人の人生を最高と決定づける。死の宣告を受けて、そのまま病院の一室で静かに死を迎えるのも人生なら、病院を逃げ出して自分たちのやりたかったことを存分楽しんだ上で死を迎えるのも人生である。自働車整備工はともかく、富豪の実業家はやろう思えば出来たはずである。それが出来なかった。そのチャンスを与えてくれたのが自動車整備工である。2人にとって人生の終わりに心の許せる相棒を得たと言える。映画の狙いの一つもそこにあった。ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンという曲者同士の組み合わせも良かった。日本でも、2019年に吉永小百合と天海祐稀の共演のリメイク版が制作させたようだが、男と女の違いはどうなのか。日本には「冥途の土産」という言葉がある。歳を取ってからの楽しい出来事は、あの世に土産として持って行く。私の後半生を振り返ると、40代はゴルフ、50代は山歩き、60代は田舎暮らしとアジア旅行、70代は国内旅行と釣りである。残りやりたかったこと、世界一周クルーズ、シルクロード横断、スキューバダイビング、生まれ故郷の台湾のプチ滞在、中学時代の気の合う仲間とのゴルフなどが浮かぶが、無理だろう(寂笑)。(2020・9・5UP)

 

 

モナリザの謎

 古いエッセイ特集(「人の匂ひ」文藝春秋)を読んでいたら、面白い記事に出合った。彫刻家の舟越保武氏が書かれたもので、題は「モナリザの眼」とある。内容を大まかに記すと、氏は長年、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「モナリザ」の女性の微笑の眼が気になって仕方がなかった。ある日電車で正面に座った女性を見て、モナリザの微笑の眼は妊婦のそれではないかとふと発見する。立ち上がった女性の微かに膨らんだ腹を見て、確信したというものである。氏の説によれば、女性の微笑の眼には外に向けたものと自分の内に向けたものがあって、妊婦の微笑の眼は、自分の体内の胎児に向けられたものであるという指摘である。氏は文末に不遜な見方と断っているが、私は同調する思いで、その記事を読んだ。女性は妊娠すると、表情が変わるという話は耳にする。きつくなる、やわらかくなるという両意見があるが、押しなべてやわらかくなるケースが多いように見受けられる。胎内に子供を宿した喜び、母親になる期待と不安が入り混じり、母性が滲み出るような眼になる。自分の家内がそうであった。結婚して5年目に子を授かったが、それ以前とその後の家内の表情は、当時の写真を見比べても違いがある。妊娠する前までは少し控え目な眼であったが、その後はもう一つの眼を持ったような表情を浮かべることが多く、戸惑った覚えがある。おそらく、その時は体内の胎児の様子を想像の眼で慈しむように見ていたと思われる。モナリザの微笑が謎に満ちているといわれる所以は、男の眼を通してであって、女性、特に子を産んだ経験のある女性なら、心密かに思い当たるフシがあるのではないか。昔良く聴いたナットキングコールの名曲「モナリザ」は、モナリザの絵に例えた女性を、♪Mona Lisa Mona Lisa men have named you. Youre so like a lady with mystic smile(モナリザ、モナリザ、男たちが、あなたをそう名付けた。そう、あなたは神秘的な微笑を浮かべる貴婦人のようだから)と歌う。男にとって女性の微笑は神秘的で魅惑的であるようである。女性の微笑に関して、旅行してみてマレーシア、タイ、それと日本の女性は、社交辞令ではなく、自然さを感じさせる。欧米人や中国、韓国の人が日本を訪れて印象を語るのは、日本女性の微笑を湛えたやわらかさである。ここからは私の不遜な見方だが、「モナリザ」のモデルになった女性は、マレーシア、タイ、日本などアジア系の血が幾分混じっているのではないか。他人のエッセイをネタにまたも変な文を書いてしまった。御容赦。(2020・9・2UP)

 

 

一族の歴史

 私の父は、5人兄弟の長男であった。3人の弟と1番下に妹。三男と四男の弟は、若くして名誉の戦死を遂げた。武勲を立て、勲章もいくつか貰った。実家の戸棚の重箱に納められていたのを覚えている。祖父は、戦死した息子2人の立派な独立墓を自分の生まれ故郷である千葉県のお寺に建てた。子思いの強かった祖父にとって、誇らしくも断腸の思いだっただろう。祖父母は、戦況があやしくなる前に、台湾から千葉県に引き揚げた。父と弟と妹は、仕事と家財の整理を済ませて、戦後本土に引き揚げたが、台湾で築いた財産はほぼ全て没収。祖父は既にそれを計算し、事前に現金の一部を本土に持ち帰り、引き揚げ後の子供たちのために用意していた。全員の家族が引き揚げてすぐに自活できたのは、そのお蔭であった。数カ所の不動産も買っており、1部は公園用地として市に寄付し、残りは売却して全員で分け合った。引き揚げ後は、叔母の家族は祖父母と一緒に千葉県に残り、父と叔父は、再建する商売を考えて祖母の生まれ故郷の山口県に移り住んだ。台湾の基隆市と山口県の下関市が条件的に似ていたからである。これも祖父のアドバイスであっただろう。叔父は、すぐに下関漁港近くの電車通りに店を構え、台湾時代と同じ船舶用品の卸業を始めた。父は隣接する米軍基地近くの炭鉱と半農半漁の町で洋裁業を立ち上げた。これは親戚筋の支えを計算した祖母の助言であったろう。父が最初開いた店は、商店街の下手にある親戚から借りた玄関口の小さな部屋であった。叔父が扱く船舶用品には作業服も含まれ、台湾時代と同じ販売は弟、製造は兄の父が行うという仕組みであった。ちなみに祖父は自分で作業用雨具を考案するなどアイディアの長けた人であった。やがて父の洋裁業も軌道に乗り、便宜上叔父名義で買った商店街の一等地に店と家を移した。捕鯨で潤う下関の叔父も再々仕事で店を訪れた。親戚の付き合いも濃密であった。子供同士、盆と正月は、交代で寝泊りする習慣があった。叔父は人間味豊かで人格者で、大変良くしてもらった。叔父は教育にも熱心で、自分の娘3人を女子大学に行かせている。当時では珍しかった。千葉県の叔母にも色々お世話になった。親切心を絵にしたような人であった。叔父は85歳で世を去り、叔母はいまも健在である。我が一族の歴史は、戦争で大きく様変わりしたが、祖父母の撒いた種は、南は九州、北は北海道、遠くイタリアでも花開いている。考えてみれば、これはすごいことである。私は祖父の才覚を受け継ぐことは出来なかったが、一族の自負だけは持っている。(2020・8・31UP)

                                                                                       

 

孫の世話

8月もぼちぼち終わり。今年の盆休みは、始めと終わりに近くで暮らす長男夫婦の孫の世話をした。2歳を過ぎた双子の姉弟は、相変わらず元気一杯。好奇心も旺盛で、一時も目が離せない。暑いので海水浴用のビニュールボートに水を満たし、パンツ一丁で遊ばせる。姉の方はすぐに水に慣れたが、弟は水が怖いのか吊った立ったままである。家内が用意していた水鉄砲を持たすと、飛ばし合って遊ぶようになった。歳は同じだが、姉が弟を気遣うような所がある。女の子だからか。夜は子供用の花火をする。濡れ縁に座らせ、花火を1本1本持たせ、長男がライターで火を付ける。シュシュシュ、パッパッパッと閃光する火の粉を見て、キャッキャッと大喜び。ところが、最後の花火を終えた瞬間、姉が激しく泣き出した。消えた花火の先端を指でちょっと触ったらしい。家内が大慌てで応急処置。水で冷やし、アロエの葉を削いて2本の指先に貼り、バンドエイドで固定する。ヒリヒリするのか、なかなか泣き止まない。2週間前に、家内と長男が2人を動物公園に連れて行ったが、弟がライオンの檻の前で急に走り出し転んで、鼻の下を擦りむいたばかり。長男は「痛い目にあって、怖さを知る」と言い、今回も嫁は「保育園で怪我して帰ることはしょちゅう」と言っているが、世話するジジババにとっては痛恨事。双子の場合、予測不能なことが起きやすい。突発的に動くこともあり、張り合うところもあり、2倍3倍の注意が必要。私の息子2人が幼児の頃は家内がほとんど面倒を見ていたので、大変さはそう感じなかった。双子は大変だけれど、同時に楽になるとは言うものの、後2、3年は大変さが続きそうで、共稼ぎの長男夫婦の大変さを思いやる。終わりの日も水遊びと花火をした。弟は素っ裸の方がいいようで、そのまま水遊びをした。水道ホースを握り、姉に水を浴びせる。姉も負けじと手で杓って応戦するが、やんちゃな弟の遊び相手をしている感じである。ジジのズボンも水の攻撃を受けてびしょ濡れ。姉は、後ろ向きになって足をバタバタして泳ぐ真似をした。「プールで浮き輪を付ければそのまま泳げるか」。花火は、さすがに姉は怖さが残っており、嫁に抱かれて見るだけであったが、花火を上手に扱う弟に「000すごい!すごい!」と褒めた。最後の私と長男と弟の三連の花火には、全員が「ワァー、ワァー」と歓声を上げた。ささやかな盆休みであった。今年はコロナの影響で、全国的に行楽や里帰りを控えた家族も多かったようである。1日も早い終息を願うばかりである。(2020・8・27UP)

 

 

 

人間の限界

 著しい進化を遂げた人間は全てにおいて能力が優れていると思っていたが、今回の新型コロナウイルスで世界中が振り回されている状況を見ると、その判断は早急であった。科学や機械の進歩に惑わされ、人間も進歩していると勘違いしていたに過ぎない。1968年に公開された米映画「猿の惑星」は、宇宙飛行士の4人が地球に似た惑星に不時着するところから物語が始まる。酸素も水も緑もあることに安心するが、そこは猿が支配する惑星で、人間は言葉も喋れない下等動物として扱われていた。猿のリーダーたちは、人間の凶暴性を怖れ、忌み嫌った。やがて1人生き残った宇宙士が、猿の支配地から脱出し、新天地を求めて彷徨う内に、海辺に辿り着く。目の前に砂に半分埋まった自由の女神像を発見し、「地球だったのか」と茫然自失するところで終わる。宇宙時間の誤差を巧みに取り入れた傑作だが、欲望と権力で自滅した人間の愚かさ、危なさを描き出している。同じく1968年に原作者アーサー・クラークと組んでスタンリー・キュービリック監督が撮った「2001年宇宙の旅」では、宇宙船のコンピューターの反乱で操縦不能に陥り、宇宙の渦(ブラックホール)に巻き込まれた宇宙飛行士が辿り着いた場所は、綺麗に磨かれた一室。キングサイズのベッドの上で、自分らしい人間が寝ている。近づくと醜い老人の死体に変化する。一転して宙に浮かぶ透明な卵のようなものが場面に現れ、その中に未成熟な目と身体をした胎児が無表情に映し出されたところで終わる。筋を追うと、まず地上に猿がいて、その猿が知恵を授かり、進化して人間になり、一転して宇宙探索する宇宙飛行士に早変わりし、宇宙を彷徨った挙句、胎児に戻るという流れである。人間は進歩しているようで、実は同じところをぐるぐる回っているに過ぎないように受け取れる。この2つの映画には、人間の限界という恐ろしいテーマが潜んでいる。現実に、軍拡競争、領土紛争、宗教対立、民族差別、食料危機など危険性を抱えたままである。宇宙レベル、細菌レベルにおいて人間はまだ力不足ということである。謙虚な気持ちで、一つ一つ解決して行くしかない。特に人間の生命にかかわる事柄は、最優先で取り組むべきである。1989年、ソ連の宇宙船ソユーズ号に民間人として初めて乗船した秋山豊寛氏は、帰還した後、人生観が百八十度と変わったと述べていた。宇宙から見た地球が非常に危なげに目に映ったとのことである。以後秋山氏は自給自足の生活を選択する。人間の限界を打破するには巨視的な目を持つ必要があると思う。(2020・8・24UP)

 

 

「日本沈没」

 小松左京は、日本では珍しく変わった小説家であった。豪放でユーモア溢れた人であったらしいが、書いた小説は「復活の日」とか「日本沈没」とか世紀末を感じさせる恐怖SFを得意とした。「復活の日」は、細菌兵器と核兵器により破壊された地球上にわずかに生き残った南極隊員の日本青年の復活の物語、「日本沈没」は日本近海の大規模な地殻変動で日本列島が海に沈んでしまう物語。2つとも科学に裏付けされたもので、当時大いに話題になり、映画化もされた。先日、「日本沈没」(1973年)がNHKBSプレミアムで放映された。若い時分に観た時とは違って、実際に火山噴火、大地震、大津波が起き、身に迫るものがあった。数億年前に大陸から分離して出来上がったに日本列島は、太平洋と日本海の2大プレートに挟まれている。その太平洋プレートが日本列島の地中深く潜り込むように圧力を強めている。そのメカニズムは解明されており、近い将来、大平洋沿岸を中心とした南海トラフ大地震が起きることも予測されている。映画では火山噴火、地震頻発、巨大津波により日本列島が破壊される様子が生々しく描き出されている。小松左京がこの小説を手掛けた頃の日本は、戦後の高度成長期の只中であった。平和と繁栄に酔い痴れ、人々は大いに生活をエンジョイしていた。銀座の歩行者天国も、豊島園遊園地も、江ノ島海水浴場も余暇を楽しむ人々で溢れていた。東京タワーから見る東京の景色も、超高層ビルも建ち始め、世界一を誇る繁栄都市の様相を呈していた。そんな中で、小松左京だけは、全く違う景色を見ていた。「こんなことが続くはずはない。大きなしっぺ返しがくる」と危機感を募らせた。酒に酔い無礼講になった宴会の席に、妙に冷めた人間がいるが、丁度そんな感じである。終盤、日本列島が海に沈むことが確実視され、日本政府は緒外国に日本人を移民として受け入れるように要請する。しかし、諸外国の対応は冷ややかである。今の難民問題と同じだからである。最後は、外国の貨物列車に家畜のように押し込まれた日本人が、まるで強制収容所に送られる人々のように、広大な砂漠地帯の景色を不安な面持ちで眺めている場面で終わる。「日本沈没」は人間の力では抗しきれない大惨事であるが、小松左京が目的としたのは、平和と繁栄に浮かれ箍の緩んだ日本人に対する警告であり、常に危機感を忘れてはいけないという戒告であった。その意味で、小松左京は「天災と国防」を日本人に書き残した寺田寅彦と同様に、国の行く末を案ずる愛国者であったと思う(2020・8・20UP)

 

 

終戦8月

私は台湾の基隆市で生まれた。戦後世代の1回生である。当然終戦直後の日本の様子は知らない。記録映像や資料を通して知るのみである。私が生まれる約1カ月前の8月15日に本土では、天皇陛下の戦争終結を告げる玉音放送が、電波状態の悪いラジオから全国に流れた。それを聞いた多くの国民は、最初意味がよく分からなかった。しかし、内容からして「どうも、日本は戦争に敗れたらしい」という真実が広まり、混乱した状態があちこちに起きた。泣き崩れるもの、日本刀を振り回すものも出た。「日本が敗れた? 嘘だろう?」「竹槍1本でも戦うつもりではなかったのか?」「神風で、日本は最後に勝つはずではなかったのか?」「これからどうなるのか? 男は皆殺し、女は慰め者になるのか?」など様々な流言飛語が飛び交った。しかし、先行きの大きな不安と同時に、「やれやれ、これでやっと夜も安心して眠れる」「もう戦争で命を落とすこともない」という安堵感も伝わるようになった。終戦の8月15日の空は憎らしいぐらいに青く澄み渡っていた。やがて米軍を中心にした連合軍が日本に上陸し、占領政策を開始する。怖れた「男は皆殺し、女は慰め者」にされることもなく、苦しくて惨めな食糧難を何とかしのげば、命と生活は維持できという安心した空気が全国に広がり、復興の兆しも見え始めた。焼夷弾で焼き尽くされた各都市の駅前商店街の跡地には、戦勝国気分の中国人や朝鮮人らによる闇市が立ち並び、法外な値段ながら食料や生活雑貨も賄うことが出来るようになった。密組織による米軍の闇物資も市場に流れた。敗戦国の日本人は、その状況に耐えて身を任すしかなかった。始めて敗戦を経験した日本人は、「戦争に敗れるとはこうゆうことか」と実感した人も多かった。そして、敗戦の原因は何だったのか、と考える人も出てくる。原因は色々あるが、結局は「神風と科学」ということになる。戦前の日本人には神風信仰があった。「国難は神風が救ってくれる」という神話が、鎌倉時代の蒙古襲来以来、心に残っている。その神風の力を、米軍がことごとく科学の力で粉砕した。そして勝敗を決定づけたのも科学で造った巨大雷(ピカドン)であった。GHQのマッカーサー最高司令官が日本を離れる時の演説で、「日本人はまだ15歳の少年である」と述べたのも、神風を象徴とする観念論を揶揄したものであった。同時に優秀で礼儀正しい日本人が民主主義の下で科学立国を目指せば素晴らしい国になるという期待も込められていた。色々な思いが錯綜する終戦の8月15日である。(2020・8・15UP)

 

 

肝試し

最近はコロナの影響か、テレビで再放送番組が増えた。先日のNHKBSプレミアムで岐阜県の「郡上八幡盆踊り」(郡上おどり)を再放送していた。以前も観たことがあるが、夏の期間、市民、外来者も加わって夜遠し踊り捲る様子が映像化されていた。情味豊かな夏の風物詩を感じさせる。子供時代の神社境内で行われた盆踊りを思い出す。神輿が派手に繰り出し、屋台が並ぶ華やかな夏祭りと違って、盆踊りは長く繋がった提灯に照らされ独特の雰囲気が漂ったものである。男女の涼やかなゆかた姿、化粧を施した女たちが醸し出す色香、死者を祀り送り出す宗教的な要因にあったようである。仲睦ましく踊る若い男女の姿を、子供心に妬ましく感じたものである。この番組では、郡上八幡の中心を流れる清流吉田川で遊ぶ中学、小学の子供たちの映像も合わして流していた。川遊びの中心は高飛び込みである。川岸の高い岩場から飛び込む、いわば肝試しである。3メートル、5メートル、そして最後は10メートルもある橋の欄干から川の真ん中をめがけて飛び込み、自分の勇気を仲間に示す遊びである。中にはびくついて、飛び込めない少年もいる。仲間の声援を受け、意を決して飛び込み、拍手喝采を浴びる少年もいる。その時の晴れやかで嬉しそうな表情がいい。肝試しと言えば、また自分の子供時代を思い出す。夏休みは、遊びを通して色々な肝試しをしたものである。高飛び込み、急流滑り、波止場渡り、船底潜り、綱渡り、夜の墓場、お化け大会など、胸がバクバクしながらも楽しんだものである。怖さを覚え、怖さを知り、それを克服する、その体験は、子供が1歩1歩大人に成長するための儀式であったのかもしれない。郡上八幡の人々の絆の深さも、子供時代一緒に肝試しした体験が役立っているはずである。この郡上八幡の高飛び込みも、女の子は参加していなかったように思う。せいぜい傍で見物するか応援するかである。肝試しは、男の子だけが参加する遊びであった気もする。もともと男の子の方が勇敢なのか、それともそういう風に仕向けられた慣習の一つなのか。動物界を見ると、雄が群れを守り、群れの秩序を維持する役目を負っている光景は良く目にする。サルの世界が特にそうである。その犠牲的精神は人間社会にも当て嵌まるだろう。子供を産み、育て、家事を取り仕切る女性に変わり、国や社会や家族を守るのはやはり男の比重が高い。男らしさ、女らしさを口にすれば変な顔されるご時世だが、それはやはり間違った平等感覚であるように思われる。(2020・8・13UP)

 

(郡上八幡・吉田川)

 

タコ釣り

 6月初め、ルアーで91pのサワラを釣り上げてから、私の釣り運は下がった。挽回のつもりで出かけた山口県の上関港の釣りも、家内アジ1匹、私小鯛1匹と散々であった。7月に入ってもさっぱりで、完全に釣り運に見放された。大物は沖に出てしまったのだから仕方がないと諦め、これまでしたことのないタコ釣りに挑戦する。釣具店で500円程度の小さなタコ坊主の形をした仕掛けを買い、岸壁周辺を探る釣り方である。年寄り向きの楽な釣りである。8月に入り挑戦3日目で、大きなタコが釣れた。魚市場前の浮桟橋に狙い定め、仕掛けを落とし竿を上下に動かしていたら、急にスジがピーンと張る。リールを巻こうとしても巻けない。根掛かりしたと思い、スジを引っ張り切ろうとするが、リード6号、PE2号、簡単には切れない。何とか仕掛け針を外そうと試みるがこれもダメ。「まてよ、これはタコが食い付いて、岩か何かに足の吸盤を吸いつかせているのかもしれんな」と思い直し、スジを緩めたり、竿先を小刻みに動かして、相手の動きの変化を探る。瞬間、竿先がふわっと軽くなり、スジがわずかに動いた。タコが吸盤を外したシグナルか。必死でリールを巻き上げる。重い、重い。やがて海中から8本の足をこちらに見せながら、ゆらゆらと浮かび上がってきた。イカのように逆噴射したり墨を吐くこともなく、赤黒い体をクネクネと気味悪く動かしている。タモは用意していなかったので、針掛かり確かめスジを手で持って釣り上げた。針外しは、吸盤がやたら手に吸い付き、手間が掛かる。近くで同じタコ釣りをしていたベテラン風の爺さんが寄って来て、「大きいのう。最近じゃめったに上がらんよ。色はメスだな。メスの方が美味いよ」と言う。「目方は何ぼじゃろう?」「さぁ、1キロ前後かな」。1つ上がれば御の字と、そのまますぐに家に持ち帰る。目方を計るとジャスト1キロ。「今年は色々変わったものを釣ってくるね」と半分あきれ顔の家内。早速塩もみし、湯がく準備を始める。刺身、天ぷら、タコ飯、タコ焼きして賞味しよう。釣り運が再び巡ってきたか。ビギナーラックか。大物が戻ってくるまでは、タコ釣りを楽しもう。家から20分程度で行ける港で、ブリ、サワラ、スズキ、コノシロ、アジ、イワシ、チヌ,イカ、タコが釣れるのは、リタイヤーした身にとって有り難い。しかも1人で楽しむ釣りはコロナ予防にもなる。早速夕飯に、タコの刺身を食べる。甘くてコリコリして美味かった。家内が写真を三重の妹に送ると、すぐに「食べた〜い!」の返事が戻ってきた。(2020・8・10UP)

 

  

 

コロナストレス

「自分もうつされるかもしれない」「ウイリスで死ぬかもしれない」。新型コロナウイリスのストレスは大変なものだろう。未だ収まる気配もなく世界規模で広がっているから猶更だ。「インフルエンザと似たようなもの」「子供や若者は重症化しない」「弱毒化している」と言った気休めの意見も流れている。問題は、人間はこのウイリスが引き起こすストレスにいつまで耐えられるか。むしろウイリスの直接の被害よりも、ストレスによるダメージの方が大きいかもしれない。ストレスを考えた場合、高齢者は不便な生活には慣れているし、行動範囲も限られている。子供や若者はそうはいかない。活動的であり、耐えることに不慣れである。それが今後どのような形で現れるのか。生活リズムの狂いから情緒不安定が続き、我慢しきれない若者による集団感染も頻発するだろう。やがては政治や社会に対する不満や怒りとなって表出することも考えられる。生活に行詰まり、自殺者が増えることも懸念される。欧米で起きているアジア人差別事件もストレスによる被害妄想が起因している。つまり現在版黄禍論である。どちらにしても、ストレスが人間社会全般に悪影響を及ぼすことは確実だ。コロナ渦に見舞われている現状はまさしく乱世である。肉体的、精神的に加え、知恵のある方が優位に立つ。ストレスは平等に負荷されが、対処は個人それぞれが実行しなければいけない。多感な子供に対する学校や親のケアーも大事である。思い返すのは、昔読んで感銘を受けたドイツナチスのユダヤ人強制収容所の体験記録を記した「夜と霧」(ヴィクトル・E・フランクル著・みすず書房)である。コロナ禍とユダヤ人強制収容所を同一に並べるのは不見識だが、恐怖によるストレスという点においては近似値にある。毎日が死と背中合わせにあった囚人のフランクルもストレスに苛まれる。その彼が、なぜ生き地獄のような状況から生き延びることが出来たのか。本にはその心的な様子が克明に描かれている。人間は劣悪な環境に置かれると肉体も精神も弱り、生きる感覚も麻痺する。それに任せていれば、衰弱を速め虫けらのように死んでしまう。フランクルは生き延びるために知恵と勇気を必死で持ち続けた。人間の本当の強さとは、知恵と勇気、それがもたらす希望と愛であることを実証してくれた。暗い夜、深い霧がいつまでも続くはずがない。「朝の来ない夜はない」のである。この世界規模の難局を乗り切るには、人間が持ちうる根源的な生命力と呼べる知恵と勇気、それがもたらす希望と愛が必要だと思う。(2020・8・5UP)

 

 

恋しい昔

 ああ、昔が恋しい。無性に恋しい。父がいて、母がいて、兄がいて、姉がいて、妹がいたあの少年時代に戻りたい。日本がアメリカと戦い無残に敗れた日から、昭和20年代は、日本は本当に貧しかった。私の家も漁師町のはずれにある祖母方の親戚から借りたあばら屋であった。配給されるわずかな米と麦と小麦粉を芋と一緒に炊き、おかずはわずかな野菜と地元の小魚がメーンであった。電力事情の悪さから再々停電を起こす白熱電球の下、ちゃぶ台を囲んで、みんなでむさぶるようにして食べた。粗末な食事が一家の命を支えた日々、不思議と惨めさはなかった。近所の親戚筋の支えもあったし、わが家族は陽気で元気で和やかであった。父と母の洋裁業が時流に乗って、商店街の一等地に店を構えるようになってから、暮らし向きは徐々に良くなった。小学校に入学する頃は、わが家の店を知らないものはいなかった。商売で成功し借家数十軒を持つほどに裕福であった台湾から無一文で内地に引き揚げ、5、6年で家業を再興させた父と母の頑張りは、今考えても凄い。そんな小学の6年間は、私にとって思い出が一杯詰まった良き時代であった。毎日がキラキラと光り輝いていた。両親に初めて連れて行ってもらった小倉の動物園、遊園地、門司で開催された猛獣サーカス、下関の水族館、デパートと映画、家族で祝った正月、端午の節句、親戚と一緒の功山寺の桜見、小学校の遠足、海水浴、貝堀り、川遊び、賑やかな夏祭り、艶やかな盆踊り、秋の運動会、学芸会、大分別府の修学旅行、凧揚げ、トンボ獲り、雪合戦、仲間との鮒釣り、父との夜釣りなど、楽しかった思い出が走馬灯のように浮かぶ。初恋も小学生の時であった。今も恋心は残っているから純度の高いものであった。自分の人生から小学の6年間がなかったら画竜点睛を欠くものになっただろう。その後、中学、高校、大学、社会人の時も楽しい思い出はあるが、封切館で観る映画とビデオ映画ほどの差がある。ともあれ昭和のあの時代は、子供が天下であった。親たちは仕事に忙しく、子供に構ってやれない。それをいいことに子供は遊び放題。家に閉じ籠っていたら、「外で遊びなさい。身体にカビが生える」と叱られたものである。塾もなければテレビゲームもない。遊び方も遊び道具も自分たちで作り出し、毎日色々な遊びに興じた。しかもガキ大将、楽しくないはずがない。もうあんな時代はないだろう。父と母、兄2人もこの世からいなくなり、私と姉と妹の3人だけになった。人生の舞台の照明が一つ一つ消えていく寂しさはあるが、今は楽しい思い出を一杯くれた家族と少年時代に感謝である。(2020・8・2UP)

 

 

 

竹フイルター

 欧州で新型コロナウイリスが猛威を見せ始めた頃、フランス発の時事ニュースで、タバコに含まれるニコチンに感染抑止効果の可能性があるという研究結果が発表された。もし真実なら、喫煙者にとって肩身の広い話である。ニコチンには薬効があることは知られている。気分転換やアルツハイマー病にも効果があるとされている。タバコで1番有害はタールである。発がん性などを引き起こす。調べると、タバコの起源は古く紀元前から南米の種族の間で嗜好品として愛用されていた。それが中世大航海時代にヨーロッパに伝わり、徐々に世界に広まった。当初は噛みタバコ、葉巻、水タバコ、キセル、パイプが主であったが、欧州の戦争でパイプを失くした兵士が思い付いたとされる紙巻きタバコが製品化され一般に普及してから、誰もが気軽に吸うようになった。会社員時代を思い返すと、社内は常にタバコの煙が漂い、会議の席も煙が充満し、映画館も喫茶店もレストランも飲み屋も、人の集まるところはタバコの煙が絶えることはなかった。繊維フイルターやタールを除去するプラスチック器具や低タールタバコ、最近では電子タバコまで登場するようになった。タバコには二反性があり、それが愛煙家の悩みの種である。私は20代始めにタバコを吸い始め、商売を始めた30代終わりから18年間はタバコを吸わなかった。息子2人が独立し家を出てから、気の緩みと寂しさも手伝い、再びタバコが吸いたくなった。考えて簡単に吸えないパイプにした。ネットオクションで買うなど現在25本程度保有。パイプには普通アルミ製の小さなフイルターが付いているが、キセルに使用するような小さな竹(女竹)を工面し、それを短く切り内部を薄く加工し、市販の活性炭を砕いた粒を詰め、それを常用のパイプ6本のマウスピールに嵌めて使用している。5、6回程度で粒は詰め変える。使用した粒はエタノール液の小瓶に漬ける。液はたちまち真っ黒になる。数か月漬けた後に活性炭を水洗いし、鉄板で熱湯消毒を繰り返し、完全乾燥の後再利用している。これを1日合計4、5回、自分の個室のみで使用している。味がマイルドになる。紙タバコ(20本入)は1箱25g、パイプタバコは1袋42.5gで、1袋12日近く持つから節煙と費用効果もある。但し、これは私が気休め程度に考えた方法で、衛生面のこともあり絶対に真似しないでほしい。余談ながら、アルコールも殺菌効果があるので、毎晩晩酌する人は感染しにくいのではないか、とこれまたあらぬ妄想を浮かべる。何でも都合よく考える男だな、と自分ながら思う(苦笑)。(2020・7・30UP)

 

 

 

重鎮

今の日本の各界を見渡しても重鎮と呼べる人がいなくなった。少なくとも、昭和の時代までは各界においてそれらしきキーパーソンがいた。何やら使命感のようなものを帯び、全体を束ねて、みんなの尊敬と信頼を集めた。今思えば、「日本の父」のような存在であった。共通するのは実績と人柄に裏打ちされた徳があり、誰もが素直に従うという指導性を兼ね備えていた。存在だけで、周囲が明るく安心した空気に包まれた。やはり人間社会にはリーダーと呼べる人が必要であると実感させる魔力があった。芸能界を例にすれば、俳優の森繁久弥がそういう立場の人であった。経験も教養も人間味も豊かだった森繁久弥は、芸能界において1目も2目も置かれ、映画や舞台に一緒に参加できるだけで、俳優たちのモチベーションが高まったものである。つまり中心に光の核が出来、それが放射状に広がる感じである。森繁久弥が主演して人気を博した社長シリーズ、駅前シリーズの喜劇映画を今もたまにテレビで見るが、撮影現場の俳優たちの和気藹々としたチームワークの良さが画面一杯に滲み出て、それが観客に伝わり、映画を一層面白くしている。脇役の加東大助、伴淳三郎、三木のり平、山茶花九、フランキー堺、小林圭樹も思う存分自分たちの本領を発揮した。森繁久弥の後の喜劇は、寅さんシリーズの渥美清が引き継いだが、これは笑いのトーンが違った。悪く言えば、スタンドプレーである。無理もない話で、渥美清は浅草ロックのストリップ劇場の寸劇で叩かれた喜劇人で、自分が目立たなければ飯の食い上げの修羅場を潜り抜けている。全員力を合わせて作るという森繁久弥とは喜劇の成り立ちが違う。2人は双方苦手なタイプであったはずである。事実、寅さんシリーズの「男はつらいよ純情編」(1971年)で森繁久弥が出演したが、2人の演技は余り噛み合っていなかった。しかし、互いに認め合う関係であったようである。森繁久弥、渥美清、そして今度テレビで大活躍した志村けんを失い、日本の喜劇界はぽっかりと大きな穴が開いてしまった。単発的な笑いをとるお笑いタレントは山ほどいるが、賞味期限が過ぎれば忘れてしまう。芸能界に限らず、重鎮がいない状況が各界に及んでいる。昭和を懐かしむ者としては、何と薄っぺらな国になったのだろうと落胆を覚える。豊かさや効率便利の代償とすれば、飛んだしっぺ返しである。気分直しに、今晩、録画している駅前シリーズ「駅前女将」(1964年)でも見ようか。兎も角、昭和は今よりは勢いがあり、纏まりがあったように思う。(2020・7・25UP)

 

 

地蔵商店街

現在の日本の人口構成を見ると、逆ピラミッド型である。実に不安的である。そのことにより様々な歪も生じている。経済面に関しては、これを逆手に取ることも考えられる。例えば、高齢者が保有する金融資産を市場に流れやすくする。つまり高齢者に沢山お金を使ってもらうようにするのである。かねがね写真や映像で見て、東京の巣鴨にある地蔵商店街に注目している。JR山手線巣鴨駅からとげぬき地蔵(高岩寺)と江戸六地蔵(真性寺)を結ぶ参拝に訪れる高齢者を対象とした商店街である。商店街の数はおよそ200軒、高齢者用に様々な趣向を凝らした馴染み易い店が順序良く建ち並んでいる。歩いて回るには程よい距離である。まさに「おばあちゃんの原宿」である。高齢者が原宿の若者向きの竹下通りを歩いても魅力を感じないだろう。高齢者には高齢者に向く街の設え、雰囲気が大事である。日本全国の市町村にも高齢者向けの似たような商店街を作るべきである。高齢者の懐は温かい。それを狙わない手はない。それに、高齢者の好みは若者とはことごとく異なる。着るものは流行にとらわれない楽なもの、食べものは薄味で素材の分かるもの、道具は分かり易く使い勝手の良いものが好まれる。キーワードは安全・安心・簡単・親切である。いまの市場は、それに充分に答えているとは言えない。テレビCMで流される健康食品、健康器具、サプリメントが目立つぐらいである。高齢者は商売の対象から除外されている感じである昔はそうだったかもしれないが、今は違う。動機と興味を与えれば高齢者の消費マインドは高まるはずである。金を使いたくとも、場所、モノ、サービスがないからである。金は天下の回りもの、高齢者が貯めている潤沢な金が、世の中に流れ込めば、景気も多少良くなり、社会も活気づく。年金で保証されている限り、散財しても生活に困ることはない。金を持たない若者、住宅ローンや教育費で苦しむ中年層を主たる相手としている限り、景気の低迷は続くばかりである。地蔵商店街を歩く高齢者はおしなべて明るく元気である。街全体の雰囲気も和やかで優しい。その癒し求めて若い人たちも集まる。それが日本全国にあると想像すると、それだけで愉快になる。国の良し悪しは、子供と高齢者の表情を見れば分かる。子供と高齢者の表情が朗らかで元気であることが重要である。幕末明治に日本を訪れた欧米人の中には、子供と高齢者の笑顔の多いことに感動し、「この国はアジアの先進国になる」と予言した人までいた。高齢者を弱者と規定するのは間違いではないが、強者である面も考慮すべきと思う。(2020・7・21UP)

 

とげぬき地蔵(高岩寺)*東京デートより

 

再びユーチューブ

先週2歳児の双子の孫とやって来た長男が、わが家のテレビを見て「うちはチャンネル権を2人に奪われたわ」と苦笑する。ユーチューブでアンパンマンを見せていたら、いつの間にリモコン操作を覚えてアンパンマンばかり見るという。番組を変えると怒るらしい。「テレビがユーチューブに負ける日がくるかも」と長男。わが家もオンラインが楽しめる4Kテレビに変えてからユーチューブを見る機会が増えた。ユーチューブの多様性はテレビを遥かに凌駕する。オーバーに言えば、放送界のビッグ・バンとも呼べるかもしれない。テレビ放送は、国の指導、管理の下でスタート。国営のNHKと大手新聞社系列のテレビ会社が選ばれ、放送基準に沿って番組を制作し、NHKは税金と受信料、民放はCM収入で運営を始めた。マスコミと呼ばれ第三の権力までに成長した。ユーチューブはその柵がなく、誰でも自発的に発信できる。現在のところ、テレビとユーチューブはプロとアマチィアの差があるが、選択肢の幅から言うとユーチューブの方が優勢である。現に個人趣向の強い若者のテレビ離れが起きている。ユーチューブのアマチィア臭さも逆に強みになる。ユーチューブで八重山諸島の旅番組を見たが実に丁寧に撮られ、竹富島で水牛車に乗って沖縄伝統の町並みを見学するシーンなどは、時間的にも景色的にも説明的にもリアルタイムな感覚が味わえた。この臨場感はテレビでは無理である。プロ芸人でも、ユーチューブに流したピコ太郎の奇妙なダンスと歌が世界で大人気を集めた。余りテレビで見れないサンドウイッチマンや東京03のコントも存分に楽しめる。1コント2、30分、CMの多いテレビでは難しい。ユーチューブ用の番組を制作する人をユーチューバーと呼ぶらしいが、方法を学べば誰でも出来る。「でも、ユーチューブで金を稼ぐのは大変だよ、特に編集がね」と仲間の製作を手伝ったことのある長男は話す。仮に当てても、人気を継続することは大変。世の中楽に稼げる商売なんてない。将来テレビとユーチューブの関係はどうなるのか。このまま独自の道を進むのか、融合するのか。技術面とスポンサーと視聴者のニーズ次第である。気づけば、居間のテレビもアンパンマンに切り替わっていた。油断も隙もない。他にも、男の子は言葉もまだ充分に喋れないのに、電話を操作して耳にあてがい訳の分からない日本語を早口で喋りまくる。女の子は家内のスマホの写真に興味を示し指でさかんに操作する。情報社会の技を早くも身に付けようとしている。それが良いことなのかどうか、爺の私には分からない。(2020・7・17UP)

 

 

 

政治の凋落

長年投票をしてきたが、私夫婦は誰に投票したかは言わないし、聞かない。どの政党、立候補を支持するかは、夫婦でも違うからである。相手に強制するものでもない。ひょっとして家内は共産党かもしれない。その家内が、今度の買収容疑で捕まった河井案里議員のニュースを見て、ぽろっと「アンリには入れなかったわ」と言った。私も思わず、「オレは入れたよ」「自民党の新しい顔になると期待した」とまで述べた。同時に捕まった夫の河井克己議員は保守でもタカ派に属し、安倍晋三首相との関係も深い。憲法改正など戦後レジュームの脱却の手助けになる政治家と目されていた。先の改造で法務大臣に初入閣を果たしたが、今回の買収疑惑ですぐに辞任に追い込まれた。裏切られた気分である。もともと今の自民党政権は責任政党の体を成していない。公明党と連立を組んでからは、政策にバラつきがあり、国を引っ張っていくだけのビジョンも馬力も欠いている。第二次安倍政権で少しは持ち直したが、森友・加計問題で足元を掬われ、桜を見る会のごたごた、そして、今度の河井夫婦議員の逮捕である。戦後の自民党政権を見てきた者からすると実に情けない。結局のところ、世襲議員が主要なポストを占める今の自民党の体質の甘さに原因があるとしか思えない。戦後発足した吉田茂内閣以降、岸信介、池田隼人、佐藤栄作、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘と続く歴代の自民党政権は段差はあっても本流としての筋が通っていた。共通するのは、戦前の一等国民としての誇りと強さ、東大、京大などを出た秀才揃いで、角栄を除いて官遼経験も持っていた。政治の仕組みを熟知していた。政府と官僚は二人三脚のように効率良く動いた。多くの懸案事項を解決し、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国を築いた。その流れを壊したのは、金権政治の権化のような金丸信と壊し屋と異名をとる小沢一郎の力を借りて誕生した竹下登政権である。それは相撲の番付のようにはっきりと色分け出来る。竹下政権以降の日本の政治は一気にレベルダウンした。不正、汚職、派閥争い、分裂などスキャンダルが相次ぎ、ついにギブアップ。引き継いだ野党政権も、素人政治に始終した。あまつさえ国民に媚びる迎合政治の空気も生み出した。結果、日本は長い「空白の時代」を迎えることになる。保守の力強い政治を取り戻すには、公明党と縁を切るべきである。次に優秀な官僚を積極的に政界に招き入れ、政治の仕組みを立て直すことである。甘い世襲議員はお払い箱にすべきである。政治家と官僚の質を取り戻さない限り、日本の政治の凋落は続くと思う。(2020・7・13UP)

       

 

般若心経

本文276字の般若心経は仏教の中で1番短いお経である。諳んじる人も多い。写経の手本でもある。私も京都の寺で写経した経験がある。短いお経だが、内容は濃い。種類が増え長々となったお経を1つのエッセンスに纏めたのが般若心経である。中でも、「色即是空 空即是色」の文句は有名である。子供時分、色をエッチなことと解釈し、「エッチは空しい」と仲間とふざけ合ったものだが、無論意味は違う。色とは実体を表し、空は無、Nothingを意味する。「実体はあるようで無い、無いようである」。実体とは、人間生活における全ての内容である。それを空にすることにより、新たな有を生じさせる大切さ。容器に例えれば、モノが詰まった状態では新しいモノを入れることは出来ない。空なら新しいモノを入れることが出来る。岡倉天心の「茶の本」には、そのことが詳しく書かれている。人間的に言えば、色は自我、空は無我とも変換できる。人間の苦しみや煩悩は自我によって持たされる。自我を捨て去れば、また違った境地が開かれる。閃き、直観、悟りの道しるべでもある。更に私流に解釈すれば、色は手のひらの面、空は爪のある面である。顏を洗う場合、手のひらの面を使うが、爪のある面と連動している。歩行も足だけでなく全体の筋肉を使ってこそ歩くことが出来る。世の中の動きも人間の活動も、目に見えない「無用の用」の働きによって成り立っている。輪廻の法則も、色と空の繰り返しである。生は自覚の世界、死は無自覚な世界に過ぎない。無自覚だから苦しみも煩悩も生じない。死を怖れることのない浄土の世界である。正しく生きれば、みんな大船に乗って浄土に渡ることが出来ると説いたのが般若心経である。古今東西、人の教えには様々なものがある。中国の儒教も道教もそうである。儒教は実践的な礼儀、道義を教え、道教は処世術と呼べる知恵を伝授した。方法論は違うが、互いに補う形で、世に広まった。その後インド仏教が中国に伝わり、儒教は独自性を歩み、道教は仏教と融合した。人間の世は理論や理屈だけで動くものではない。真っ直ぐ伸びた木よりは曲がった木の方が折れにくい。人の生き方も同じと説く。般若心経と道教の処世術はどこか似ている。般若は仏の知恵という意味である。それを授けて欲しいと願うのが心経である。混迷を深める世界情勢、機械や情報や知識に翻弄される現代社会において、知恵の大切さ求められていることは確かである。それにしても、今とは全然違う大昔にこんな深い哲理がなぜ生まれたのか、その不思議さを思う。(2020・7・10UP)

 

 

石について

 石は不思議である。色々な色や形があり、色々な成分が入り混じっている。山の石もあれば、川の石もあれば、海の石もあれば、京都の龍安寺の石庭のような石もある。日本人には君が代のさざれ石にあるように、石には特別の思い入れがある。昔、千葉の親戚で通称「網中のばっぱさん」と呼ばれ、旅行に行くと必ずその場所の石を拾って持って帰る名物おばあちゃんがいた。山口に来た時、中学生の私が秋芳洞を案内したが、土産品には目もくれず、付近に落ちている石ころを拾って手提げ袋に入れた。後日墓参りで千葉に行った際、おばあちゃんの家を訪ねると、部屋中に色々な石が大事そうに飾られているのを見て驚いた。「おばあちゃん、どうして石を持って帰るの?」と尋ねると、「記念だっぺ」とクシャクシャ顔を崩す。それぞれの土地にはそれぞれの石があり、その石を眺めて、その時の旅行気分を楽しむという意味であろう。石ほど土地に根付いているものはない。昭和歌謡の名曲「別れの一本杉」の♪石の地蔵さんのよ〜の故郷の原風景とも結び付く。風景も人も変わるけれど、石は昔から変わらずにある。あるだけでなく石器時代以降、道具、武器、道路、建造物などあらゆる用途に使用された。世界の墓の多くは石である。1970年の大坂万博の時に一番人気を集めたのはアポロ計画で米国宇宙飛行士が持ち帰った「月の石」であった。長蛇の行列が出来、諦めた人も多かった。私もその1人だったが、「月の石」に対する人気は異常であった。映像で見る限り、地球上でも見られる白っぽい変哲もない石である。石に含まれた宇宙の磁力が人々を惹きつけたのだろう。見学者の中には、「月の石」に向かって手を合わす人もいたと記憶する。古代から西欧は石を加工して使うが、日本の場合は自然石のまま使うケースが多い。熊本城や大阪城のような大きな城は、整形して使われているが、自然石のままの野面積みの城壁も多い。石の成分の違いにもよるだろうが、日本人は石の自然な形を大切にする。名庭園などは座りの良い石が珍重され、石の芸術を生み出している。歴史的に石の文化と芸術は世界中に存在する。日本だけではないが、石に精神性を滲ませるのは、日本独特のように思える。2年前北海道のオホーツクの海岸で拾った錆びた鉄分を含んだ黒い小さな石を部屋の棚に置いている。眺めるとオホーツクの広々とした景色が蘇ってくる。記念写真などから受ける感覚とは全く違うものである。あの日、あの時、私はそこにいたという実感の伴うものである。石には魔力がある。千葉のおばあちゃんの気持ちが分かる気がした。(2020・7・5UP)

 

 

ちあきなおみ慕情

ちあきなおみは、私より2歳下だから、もう老けているだろう。「喝采」の頃の長いマスカラ、紅い艶やかなルージュ、濃いイメージが強いから、人目を避けた今の姿を見ても、誰だか見分けがつかないかもしれない。品を作る女らしい仕草、天に抜けるような笑い声、豊かな黒髪、独得な面相に接し、「あっ、ちあきなおみだ!」と気づく、そんな感じかもしれない。表舞台から突然姿を消して早や28年。理由はヴェールに包まれたままである。最近はテレビでベテラン、新人の歌を聴いても、何となく物足りなさが残る。歌の女王美空ひばり、昭和の歌姫ちあきなおみとは歌そのものの質が違う気がする。美空ひばりもちあきなおみも、歌に魂を込めてドラマ化する力を秘めていた。これは単に技術でどうこうなるものではなく、人間性とか天賦の才能に深く関わるものだろう。昭和という時代が作り出した傑作である。美空ひばりは国民的歌手と評されたが、ちあきなおみは陰のような存在であった。さすがの美空ひばりもちあきなおみの歌は歌えない。2人は違う世界の歌手として認め合う仲であった。ちあきなおみが歌う女は総じて、憐れで、哀しく、惨めである。娼婦の悲哀を歌った「ねぇ、あんた」や「酒場川」の「小犬のように捨てられて」のセリフに代表するように、理不尽な運命に泣く女を扱った歌が多いのが特徴である。その一つ一つを実体験のように歌い上げる。戦後解放された昭和30年代から40年代は男女の自由恋愛が広まった。初心な恋愛と男の身勝手さによって、女は振られ捨てられるケースが多かった。女からすれば割の合わない話であるが、そんな時代であったからこそ、男女の情愛や人情の機微に触れた名曲が数多く生まれたのも事実である。今の若い人からすれば理解不能かもしれないが、戦後の貧しい時代から日々変貌する時代を潜り抜けた昭和世代にとっては、甘く切なく心に響く。手掛けた作曲家(代表船村徹・浜圭介)、作詞家(代表石本美由紀・星野哲郎)が私より年上の昭和の男たちであることも、その色合いを強めた。大なり小なり男女の不条理な世界を経験したから生まれたはずである。米軍キャンプやキャバレー回りなど長い下積みを経験したちあきなみも、女の立場で経験したかもしれない。女の憐れさ、哀しさ、悔しさは女だから素直に表現できる。ちあきなおみは演歌に留まらず、それをファド、シャンソン、アメリカ音楽にも裾野を広げていく。時々、そんなちあきなおみの姿が空想画のオーラのように妖しくも懐かしく甦る。昭和は男女の明暗の濃い時代であったとつくづく思う。(2020・7・1UP)

 

 

座標軸

齢75も近づくと、冬の寒さより夏の暑さの方が体に堪える。庭の植木を見ていると、夏に向け益々勢いを増している。老体と分かっていても割り切れない気分である。季節はその夏に向かう梅雨の最中。昔の呼び名で6月は「水無月」である。雨が多い時期なのに「水が無い月」とは如何に。ネットで調べると、水無月の「無」は「の」にあたる「な」で、「水の月」という意味になるという。6月の異名として、他にも「水月」「水張月」「風待月」「常夏月」「炎陽」「涼暮月」「蝉羽月」などがある(日本大歳時記)。季節感や生活風土が感じられて風流である。英米では6月はJUNEと呼び、1年月ごとの呼び名がフォーマルに使われている。単純にアラビヤ数字を使う日本より季節感が結び付いている。かって日本も1年を「睦月」「如月」「弥生」「卯月」「皐月」「水無月」「文月」「葉月」「長月」「神無月」「霜月」「師走」で呼ばれ親しまれた。今はカレンダーを見ても、英語はあっても日本語の併記はない。心配するのはそれと並行するように、日本人の季節感や行事や礼法が失われつつあることである。反面、キリスト教徒でもないのに「バレンタインディ」「ホワイトディ」「ハーロイン」「クリスマス」の部分だけ真似して喜んでいる。1年の煩悩を払う除夜の鐘より、街中でニューイヤーのカウントダウンを叫んで打ち上げ花火や乱痴気騒ぎを楽しむご時世だ。日本の三大娯楽施設の「長崎ハウステンボス」「東京デズニーランド」「大阪ユニバーサルスタジオジャパン」もそうである。欧米の娯楽文化に洗脳されつつある。ファーストフードもそうだし、テレビやラジオで流れる音楽も英文字ばかり。まさに「欧米か!!」である。これは明治の文明開化以来の日本人の西欧崇拝と東洋人のコンプレックスが底流にあるとしても、付和雷同の感は歪めない。日本人の柔軟性と進士の気風は理解する。しかし、肝心な座標軸が傾いては、これからの激動する世界をうまく切り抜行けて行けるかどうか不安を覚える。今度の新型コロナウイリスによって、世界で大きな構造変化が巻き起こるだろう。政治状況、経済情勢、労働環境、防衛システム、生活様式、食料・エネルギー、医療体制、人口、流行文化など多岐に渡る。その臨戦体制を築くためには、もはや欧米の模倣や追従では無理だろう。日本の国の力と国民の能力が試される。日本人の座標軸を立て直さないといけない。日本の伝統、文化、価値観、季節に様々な呼び名を付けた日本人の知性と感性が重要さを増すように思える。(2020・6・27UP)

 

 

「父の日」

「父の日」。子供の日、母の日があるから付け足しに、そんな印象もなくもない。「いつもありがとう」「お疲れさま」なんて言われ、おかず1品増え、ビール追加も許される、とこか。昔の父は黙々と働く「馬車馬」のイメージが強かった。私が思い出として残るのは、父が汽車を乗り過ごし、隣町の駅から遠い夜道を歩いて帰宅したことである。当時、下関港の船舶用の作業服の注文が多く、港近くで船舶用品の卸業を営む叔父の店の1部を借り、家の方の仕事は母に任せ、父は毎日その仕事場に通っていた。帰宅は夜8時前後であったが、たまに深夜になることがあった。最初は心配したが、それが重なる内に、「また、父ちゃん居眠りして乗り過ごした」と半ばあきれ顔で言うようになった。父は待ちわびた家族の前で頭を掻きながら「すまんすまん、また寝過ごしたわ」と笑って言い訳するのが常であった。今振り返ると、毎朝汽車に乗り、仕事場で1日中働き、また1時間掛けて帰宅する毎日は、大変だっただろう。父も男である。仕事が一段落付いた夜は、駅前の大衆食堂で一杯やることもあっただろうし、好きな映画を観ることもあっただろう。あるいは色っぽい店で羽目を外すこともあったかもしれない。遅い帰宅の中には、そんな事も含まれたであろう。でなければ、父の生涯は働き詰で、あまりにも味気ない。父はハンサムで捌けた面もあり、女性にもてるタイプであった。「浮気は男の甲斐性」と言われた時代、時間とカネに余裕があったら可能性もなくはないが、父に関してはそんな気配はまったくなかった。それも何だか侘しい話であるが、家族思いの強い人であった。戦前の台湾で財を成した祖父の商売を受け継いだ父の生活は、本土に引き揚げてからは180度違ったものであった。しかし、その悔しさはおくびにも出さなかった。明治男の意地のようなものがあったのかもしれない。名の一文字に「広」が付くように、達観したような眼差しがあった。父が「わが家の教育方針は放任主義である」と言う通り、腕白坊主の私も叱られたことはほとんどなかった。学校に持っていくお金を朝方言うと、「そうゆうことは、前の晩に言わなくてはダメだ」と叱られたぐらいか。長兄の結婚話で家が揉めた時も、父はほとんど口を挟まなかった。長兄は父に一生頭が上がらなかったはずである。父は62歳で肺がんを患い逝去したが、晩年は長兄のモーターボートで一緒によく釣りを楽しんだようである。その時の父と長兄の光景を想像すると胸にジーンと来る。結局身近にいた長兄が1番親孝行者であった。大阪の次兄も広島の私も思うように出来なかった・・・。(2020・6・24UP)

 

 

老人と海

 原作アーネスト・ヘミングウェイ、監督ジョン・スタージェス、主演スペンサー・トレイシーの映画「老人と海」(1958)が、NHKBSプレミアムで懸ったので録画して観た。過去2度観た記憶があるが、アメリカ映画でも一味違う作品である。シンプルと言えばこれほどシンプルな映画はない。85日間釣り運に見放されたボロ家で独り暮らす老人の漁師が1発逆転を目指して遠い沖まで漕ぎ出し、生涯最大のカジキを仕留めるが、帰りにサメに食われてパーになる。簡単に言えばそれだけの話。主な出演者は老人と彼を慕う少年の2人。舞台はキューバ・バハマの寂れた漁師町、青いカリブの海、オンボロの小さな帆掛け舟、それと巨大なカジキと獰猛なサメである。セリフも原作の語りが主で、出演者の生の声はごくわずか。シークエンスを含め紙芝居のような形態である。老人と巨大カジキとの一騎打ちと獰猛なサメの群と格闘するシーンが強く印象に残っていたが、今回観ると、数々の武勇伝を持つ老人の心身の衰えと不安、足掻きと空しさを表す内面的な映画であることが分かる。これは当時キューバに渡り小説を書いたヘミングウェイの心情を映すものであったのだろう。冒険作家と呼ばれたヘミングウェイの小説は、体験モノが多いのが特徴的である。自らの戦争体験を基にした「誰がために鐘は鳴る」「武器よさらば」は特に有名だが、新聞記者上がりの無駄のない文体は名文として高く評価され、「老人と海」でノーベル文学賞も受賞している。私の印象では、ヘミングウェイはライオンの顔の裏側にナイーブなウサギの心を持った人ではないか。父親から男らしさを鍛えられて育ったジレンマを抱えていたように思える。彼の散弾銃による謎の自殺は物議を醸したが、ジレンマの解放であったのかもしれない。話を戻すと、この映画で老人の主役を演じたスペンサー・トレイシーは名優中の名優である。その圧倒的な存在感と骨董的価値を思わす演技力が、この映画の1番の見どころ。大きな演技はカジキやサメと格闘するシーン、後は微妙な顏の表情と小さな動作のみ。これで1本映画を持たすのだから大したものである。しかも、ジョン・スタージェスは派手な娯楽アクション映画を数多く手かげた名監督である。抑制に随分苦労しただろう。その結果、老人の釣りに対するロマンと老いの苦悩と哀愁がカリブの海を背景に詩情豊かな一幅の絵のように仕上がっている。そして、三日三晩掛けて仕留めた巨大カジキがサメの群に食い荒らされ、頭と骨だけが浜辺の海面に漂う光景は、老人の生き様を見る様で無常感を投げ掛ける。映画史に残る名作であると思う。(2020・6・22UP)

 

 

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