田舎茶房

                                                                   

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                                                               ヒーロー遊び

子供時代に観た映画で1番最初に興奮したのは「鞍馬天狗」である。嵐寛寿郎、通称アラカン演じる鞍馬天狗の活躍に胸躍った。黒頭巾を被った凄腕の謎の武士で、馬に跨り悪人退治に向かう疾走シーンは胸がはち切れんばかりであった。その後、茶の間にテレビが登場し、子供用に制作された現代ヒーロー劇「月光仮面」がそれに変わった。白いマントとマスクにサングラス、白いスポーティーな出で立ちで、乗るのは白い格好いいオートバイ、武器は刀から格闘技と拳銃に変わった。2つに共通しているのは、「弱きを助け、強きを挫く」の勧善懲悪で、時代が違うだけで中身は同じであった。原作者は鞍馬天狗は大佛次郎、月光仮面は川内康範という有名作家。思えば、子供たちを興奮させた理由は主人公の2人がともに覆面にあった。正体は薄々分かっているものの、覆面になった瞬間から無敵のヒーローになるという劇的な変化に痺れた。子供には変身願望があり、それを強く刺激した。特に男の子は正義や強いものに憧れを持つ。覆面の主人公を自分に置き換えることも可能。誰もが鞍馬天狗や月光仮面になりたいと願った。当時子供の間で月光仮面遊びが流行した。やる前に誰が月光仮面をやるかはいつも揉めた。「前はかっちゃんがやったから、今度はオレの番だ」と主張する子もいたし、「やっぱオレがやらないと様にならん」とゴリ押しする子もいた。悪者に誘拐される少女役が欲しい時は、そこらでままごと遊びしている女の子を借りた。かくして、昼下がりの長閑な商店街の通りでは、手ぬぐいで覆面し風呂敷を肩に掛けたちびっこ月光仮面が活躍するシーンが展開された。オモチャの刀なんかを振り回していたから、チャンバラの要素も組み入れられていた。敵をやっつけ三輪車に跨り、主題歌の♪ハヤテのように現れて、ハヤテのように去って行く、月光仮面は誰でしょう・・・を歌って去って行くところでおしまい。みんなで拍手喝采。月光仮面の子は当分の間ヒーロー気分に酔った。当時この遊びは全国中で繰り広げられたことだろう。そして、みんな大人に成長し、実社会に出て見ると、鞍馬天狗も月光仮面もどこにもいないことに気づく。ヒーローを見出したいという欲求はあるようで、相撲、レスリング、野球、映画スターに求めるが、距離が遠い。子供時代の鞍馬天狗や月光仮面は心の中に生きており、あの時間違いなく自分はヒーローだったという懐かしみが残る。コスモスの咲く頃になると、誘われるように、そんな子供時代の思い出が一つ一つ浮かんでは消える。(2018・10・15UP)

                                                                                        

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リタイヤー

不動産業に携わっておよそ48年。会社勤務の約13年、個人で独立してから今日までの約35年の合計である。今年73歳になり、不動産業免許が来年の2月で切れるのを機に、自然廃業しょうと決めた。実際のところ、61歳の時に大腸がんの手術した以降は後遺症を抱え仕事に支障きたし半分リタイヤ―状態であったから、実質で言えば、10年マイナスが順当か。それでも細々と続けてこられたのは地主さんたちのお蔭というしかない。不動産業も色々あって、私が手かげたのは不動産(主として土地)の仲介業を行うものであった。それも個人客を対象としたものではなく、建売業者、ハウスメーカー、建設会社、マンション業者を相手にしたもので、いわば同業者相手の商売。そのため、自宅の一室を事務所代わりにしてやれたのも、活動、経費の面からも助かった。このSOHOに似たワークスタイルは当時は珍しく、同業者から不思議がられたこともある。不動産は動かない資産で、証しを示すものは現地と法務局に備えられている公図、測量図、登記簿と本人が所持している権利証、登記識別情報、固定資産税証明書である。つまり不動産業者は、紙とペン以外は持つ必要がない。楽と言えば楽、頼りないと言えば頼りない。これで千万円単位の売買が出来るのである。基本はやはり信用が1番。1回でもヘマすれば命取り。同業者も取引相手からも相手にされなくなる。これはどの商売でも同じだろうが、不動産業の場合、扱う金額が大きいから特にそうである。契約成立までは常に神経がピリピリ、無事取引が終わると、安堵と疲労に襲われた。物件の仕入、調査、販売まで全て一人でこなしたから猶更である。これを長年続けてきたのだから、われながら神経が太いというしかない。しかも不安定で先が読めない商売である。苦労して頑張っても取引が成立しないと、収入は全くのゼロ。成功報酬というのは、不動産仲介にもっとも相応しい言葉であろう。これも20代の半ば、「不動産業は天職」と決めた覚悟があったからやってこれた。人間欲を言ったらキリがない。不動産業のお陰で、結婚もし、家庭も持ち、2人の子供を大学にもやれ、今日まで生きながらえてきたのだから、感謝をもって良しとすべきであろう。廃業に伴い終着駅に近づくような寂しさは当然ある。日本には「隠居」という古い言葉があり、社会とは距離を置き地味に暮らすというイメージがあるが、自分としては今の気持ちと健康をキープして、自然体で生きられたらいいなと思っている。(2018・10・11UP)

 

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秋のT泊旅

10月に入り台風一過の束の間の秋日和、仏様参りを兼ねて1泊旅行に出掛けた。久しぶりの下関見物、人気の国民宿舎「海峡ビューしものせき」で名物のフグ刺しを食べ、翌朝実家に赴き仏様を参り、帰路は開催中の「山口ゆめ花博」を見学するという緩いスケジュール。

徳山でインターを降り、道の駅「ソレーネ周南」に立ち寄る。先日、大阪富田林署の拘置所から脱走した容疑者が菓子パンを盗んで捕まった場所である。日本全国自転車旅行を装っての逃亡劇は事実は小説より奇なりを地で行くようで、驚いてしまった。警察より個人の方が、遥かに強かである。美味しいアイスクリームを食べ、店内で出来立ての弁当があったので購入。

 

昼過ぎに「長府庭園」に到着。長府の名所はほとんど見ており、ここだけはまだと思い立ち寄った。「長府庭園は長府毛利藩の西運長の屋敷跡で、小高い山を背にした約31,000uの敷地には、池を中心に書院・茶室・あずまやが残され、かっての静ずやかなたたずまいが今日まで保たれています」(パンフレットより)、そのままの風情ある日本庭園である。回遊式庭園の池には言われのある「孫文蓮」が咲くとあるが、時期が過ぎていた。庭園の1番奥側には、赤い彼岸花が群生し、目を楽しませてくれた。随所にある白壁の蔵は、工芸品展示室などに利用されていた。紅葉シーズンには見事な錦絵を描き出すだろう。昔の武士の教養の高さ、美的センスの良さを感じた。

 

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次は、1度渡りたかった下関市の西南端に位置する「彦島」に向かう。かって交易、漁業で栄えた下関駅界隈も、今様の地方都市に様相を変えていた。車の数こそ多いが、圧倒的に人の数が少ない。昭和30年代の沸き立つようなエネルギーは見る影もない。旧市電通りを走り、南風漁港沿いの下関の叔父が商売していた店の前を懐かしく眺め、彦島に渡る。まずは近くにある巌流島を岸辺から見ようと、海岸沿に向かうが、造船会社や民家が占領し、近づくことが出来ない。諦め、響灘の絶景が眺められる老の山公園まで車を走らす。公園の展望台から眺める景色は最高に気持ち良かった。美しい響灘、下関市街地、関門海峡、西南に目をやれば門司のレトロ街、北九州の工業地帯、若戸大橋などが見通せる。響灘から吹く海風も心地よかった。下方に遊園施設もあるようである。松の木陰のベンチで、持参のコーヒーとパイプタイムを楽しむ。家内は、手芸に手芸に用いる松ぽっくり探し。

 

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戻りは新しい彦島大橋を渡ってと思ったが、道を誤り来た道に戻り、下関駅の海岸道路を抜け、唐戸市場に向かった。ちなみに彦島は、道路も家屋も複雑に入れ組んで、まるで迷路の中に迷い込むような島である。江戸時代、中国や朝鮮との貿易の秘密基地ではなかったかと勝手に推測する。倒幕の志士たちを支援した大商人たちがいたのも、併せて思い浮かべる。唐戸市場の手前にある市立水族館「海響館」の専用駐車場に車を預け、「海響館」を見物する。入場料大人2,000円は少し高い気もしたが、それに勝るものであった。特徴のある大きな現代建築である。大水槽には、鮫、マグロ、クエ、大鯛、グレなどの魚が元気よく泳ぎ回っている。家内「ねえ、強い魚が他の魚を喰わないのかしら?」「そうじゃのう・・」。次のアジやイワシだけの水槽を見て分かった。「餌として認識しないからじゃ。大水槽にアジ、イワシを入れたら即修羅場じゃ」。その弱いイワシが変幻自在に泳ぎ回る大群は圧巻であった。ふぐやクラゲコーナーも面白かった。特に、アザラシ、スナメリ、イルカの各ショーは堪能した。人間が発する声を完全に理解しており、実に頭がいい。欧米人は虐待と見るようだが、動物たちも自分の芸を楽しんでいる風に見える。サーカスの猛獣や象の芸より無理がない。捕鯨問題もそうだが、欧米人の考え方は偏っている。ペンギンコーナーは最後の方にあったが、数も多く、気持ち良く泳ぐ様もガラスの底から空飛ぶペンギンの姿も楽しめた。昔の水族館に比べ、演出とアクテビティーが優っている。休憩所からは開門海峡の躍動感が伝わってくる。ロケーションとしても最高である。

 

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海響館を出て、海峡沿いに広く敷き詰めた木造の桟橋を歩き、少し離れた唐戸市場に向かう。途中色々な食堂、ショップが開いていたが、時間は平日の午後5時前、観光客の姿はまばらであった。この桟橋から乗る巌流島の観光船もあった。唐戸市場もほとんどが店じまいしている様子。市場は前にも行ったことがあるので途中で引っ返し、ショップで下関の地酒を晩酌用に1本購入し、今夜の宿「海峡ビューしものせき」に向かう。場所は、火の山の登り口から右に折れ、火の山ロープウエー駅を過ぎた先の山の斜面にあった。かろうじて予約が取れた宿である。特にフグのシーズンは、常に予約が満杯でなかなか取れないという話は聞いている。

 

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部屋は3階、喫煙可のバス付洋間ツイン。ベランダ付窓からは源平合戦で有名な壇ノ浦、右奥には関門大橋、北九州の夜景が眺められる絶好のロケーション。海好き、船好きの私には、1日座って眺めても飽きない景色である。以前、中学の同窓会がこのホテルで行われたことがあり、私は参加しなかったが、宴会で酒に酔っ払い、会話に熱中し、この素晴らしい景色もゆっくり拝めることはできなかったのではないか。全面ガラス張りの大浴場も開放的な露店風呂も良かった。家内の話だと、女風呂の露天風呂は目隠しされており、外の景色が眺められなかったという。「対岸の門司から望遠鏡で覗き込むヤツがいるとは思えんがのう」と苦笑する。

 

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7時の夕食は、海峡が望める全般ガラス張りの大レストラン。今回「薩長土肥150周年記念会席」を予約した。薩長土肥の有名料理が卓上に処狭しと並んだが、やはり下関名産のフグ刺し、クジラ肉の竜田揚げが1番美味しかった。フグ刺し(下関ではフグはフクと呼ぶ)は小皿盛りであったが、それでも新鮮なフグの味は賞味出来た。席を見渡すと、年寄りの夫婦づれがほぼ大半を占めている。家内が風呂で会話した同年代の四国から来た女性も、夫婦で小旅行を楽しんでいるという。年を取ると,面倒な海外より、気楽な国内の方がいいように思われる。

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部屋に戻り少し照明を落とし、ベランダに出てパイプを吹かしながら夜の海峡の景色を楽しむ。丁度その時、東の航路から豪華客船が向かってくるのが見えた。「おい、豪華客船は目の前を通るぞ」と家内に言うと、家内も飛び出してきて、並んで、子供がはしゃぐように、豪華客船が目の前から関門大橋を抜け、響灘の方向に進んで消えるまで眺めた。煌々と光る巨体はまさに不夜城である。船体の「飛鳥U」まで確認出来た。その後も2隻の豪華客船、翌早朝は瀬戸内海方面に進む豪華客船が眺められた。ラッキーと呼ぶべきか、関門海峡では普通なのか分からないが、豪華客船が頻繁に行き交うようになったのは、ここ数年のことだろう。クルーズ会社がこぞって、金持ちが増えた東アジアにターゲットを向けたからである。これ以外にも、様々な小型船舶、中型貨物船が灯りを曳航しながら頻繁に往来している。本当にいつまで眺めても飽きない。「ここに住みたいのう」と私。「飽きるわよ」とにべもない家内。故郷の浜から関門海峡を眺めて育った私には、余計に思い入れがあるのだろう。子供時代の夢は、「外国船の船長」であった。

 

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朝風呂に浸かり、遅めにチエックアウトを済ませ、下関に名残りを感じならが、実家に向かう。途中で、昨年島根の松江からUターンした旧友の家に立ち寄った。奥さんはいたが、旧友は畑仕事に出掛けて留守であった。電力会社に勤めていた旧友とは大人になってからもよく酒を飲み交した仲である。お互い夫婦も顔馴染みで、家を行き来し、一緒にハイキングを楽しんだこともある。「しばらくすると帰ってくると思うから、まず、上がって」と強く勧められたが、実家には10時の約束もあり、会えば時間も食うだろうし、もみじ饅頭のお土産を渡して辞した。翌日旧友から「会いたかったのう」の電話。これは事前に連絡しなかった私が悪い。色々楽しい話を交し、最後に「今度は連絡して会おうぞ。仲間とも連絡し一緒にゴルフをしょう」と約束した。

 

2年ぶりの実家の玄関前の広い庭は草ぼうぼう状態であった。母、兄のいない実家は、家業も閉じ兄嫁の義姉だけが暮らしているが、女手一人では、広い庭を管理するのはなかなか大変。もともとが、庭や花には余り興味のなかった人だから、無理もない。しかし、家の中は、いつも通り綺麗に整頓されていた。挨拶を済ませ、早速ご仏前、もみじ饅頭を供え、仏壇に参る。義姉が、仏壇横の兄の遺影写真を見ながら、「昨日もパパの夢を見たのよ。元気な頃の姿で、思わず早く迎えにきて、と言ってしまったわ」と目を濡らしていう。2人は学生時代からの知り合いである。兄は私より一回り上で、アメリカの音楽、映画、フアッションに被れた世代。兄は工業高校を出て、東京のカメラメーカーに就職したが、大事な指を痛めて退職し、何を思ったのか静岡の自衛隊に入隊。親の勧めで家業の洋服店(後に兄用にと新聞販売店も始める)を手伝うために実家に戻った。当時、下関の捕鯨船用の作業服の注文で大忙しであった。その頃、たまたま2人は町のダンス場で再会し、焼きぼっくりに火が付いた。今で言う出来ちゃった結婚である。義姉のその引け目というか気苦労は、おそらく母が亡くなるまで続いただろう。義姉を支えたのは、兄の愛情と2人の娘であった。「元気そうだね」と言うと、「最近は毎日50分海岸を歩いているのよ。6500歩は欠かさない。娘たち夫婦に迷惑を掛けたくないからね」とこちらも母に負けない気丈夫。「時間はたっぷりあるし、気楽にのんびり過ごしたらいいよ」と言うに留めた。後は娘2人が何とか面倒見てくれるだろう。ちなみに姪2人は英国留学の経験を持ち、姉の方はイタリヤ人と結婚し、今は家族でペンシュンを経営し、日本人観光客もよく利用して繁盛しているという。義姉の話だと、将来夫が亡くなったら日本に戻る気も多少あるようである。東京にいる妹の方はプログラマーと結婚し、本人も通訳業として活躍している。後はお茶を飲みながら、住民から寄せられた古いモノクロ写真が満載の町史記念写真集を見ながら、昔話に花を咲かせた。白砂青松の糸根の海岸,人で賑わう商店街、華やかな町祭り、芋の子を洗う海水浴場、町民総出の盆踊り大会、宴会まじりの舞踊演芸会、子供も大人も一緒に楽しんだ運動会、中に義姉の艶やかな舞踊姿、可愛い姪っ子の写真も載っていた。人の繋がりも濃く、町も元気一杯であった昭和メモリーである。最後はやはり、兄の思い出話。中学、高校時代の兄はヒーローであった。陸上と水泳が得意で、県大会にも出場した。義侠心が強く喧嘩も滅法強かった。町の不良たちも一目置いた。交通事故で入院した時も、医者から「こんな頑丈な身体をした患者は見たことない」と驚いたそうだ。カメラもプロ並の腕でコンテストにも選ばれた。不本意ながら家業を継いだ兄だが、気の強い母とはよく衝突もした。時に弟の私が止めに入ったこともある。中年の頃は、ボート遊びやゴルフに熱中した。兄は戦前の台湾時代の裕福な環境で育ったせいか、お山の大将というかぼんぼん気質は生涯消えることはなかった。晩年兄が糖尿病悪化で〈兄は酒もタバコもダメで、甘いものが大好物であった〉入院した時に義姉宛に書いた恋文を見せられた。はがき大の薄い和紙に5,6枚、美しい字体で、一字一句丁寧に和歌を詠じるように心を込めて書いてあった。義姉はまたも目に涙を貯め、「今は、この手紙が心の拠りどころよ」とか細い声で言う。兄は意外にもロマンチストだった。兄弟の前では決して見せなかった顔である。義姉は、兄が買った白い日産フェアーレディゼットを、30年以上も大事に乗り続けている。さすがに80過ぎた今は週に2、3度隣町まで買物に乗る程度らしいが、修理費が高くても手放す気はないようである。フェアーレディーゼットは、兄の分身なのだろう。別れ際、「庭の雑草は何とかした方がいいね」と言うと、「草刈り機があるから、何とか使ってみようとは思っているの」と自信なげに言う。「無理せず少しづつやればいいよ」と励ましたが、おそらく業者に頼まない限り、草ぼうぼう状態は変わらないだろう。「じゃ、またね」と軽く挨拶を交わして実家を後にした。

 

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宇部から小郡に向かう途中の海岸沿いの広大なエリアに、「山口ゆめ花博」が開催されている。広い駐車場に車を止め、正門口より入場する。入場料は70歳以上は900円。平日の昼過ぎなのに結構な人盛り。団体客や遠足気分の小学生の集団も目立つ。まずは、花博最大の呼び物である「花の谷ゾーン」に足を踏み入れる。一気に甘い花の香りやハーブの匂いに包まれる。夥しい数の花々が、中央に池を設えたすり鉢状の形状の中に、見事に調和しながら咲き誇っている。感心するのは至る所に上等な休憩用の椅子とテーブルが配置され、そこに座って食事やコーヒーを飲みながら、広大な花の景色を楽しむことが出来るようになっている。弁当を持参しなかったことが悔やまれる。この場所だけで1時間は過ごせそう。

 

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次に進むと、海の外遊びゾーンや山の外遊びゾーンがあり、中に、巨大な砂山の遊び場、日本一長い竹のコースター、日本一高い木のブランコがあった。家内はコースター、ブランコに乗りたかったようだが、整理券が必要なのと、長い列で諦めた。この他にも色々な遊戯で大人も子供も楽しんでいる。広場では大道芸人の芸も見物出来、森のステージではお神楽が上演されていたり、見世物満載である。森のピクニックゾーンを過ぎ、正門口に戻る途中にある庭のパビリオンゾーンがあり、様々に意匠を凝らした小中規模な庭が、10か所余り設えられている。庭好きにとっては堪らない。違うエリアには、映像が楽しめ多目的ドームや足は延ばさなかったが2050年の森のゾーンと海の大草原ゾーンがある。内容、演出、気配りとも、非常に優れた花博であった。リピーターも多いのではないか。11月に終わるのはもったいない気がした。

 

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帰路は、海老の養殖で有名な秋穂に立ち寄って、海老料理でもと思ったが、数が限定し2時を過ぎると食べられないと家内が言うので、いつもの長沢レイクのレストラで、遅い昼食を食べ、5時前に帰宅する。台風25号の接近で天候が危ぶまれたが、幸い天気にも恵まれて良い1泊旅行であった。(2018・10・6UP)

 

京都力

今年のノーベル医学生理学賞に京都大学特別教授の本庶佑氏が選ばれた。この部門では、一昨年の大隈良典氏に続いて、日本人として5人目の快挙。地道な基礎研究の賜物である。受賞会見で、本庶氏は、研究者の態度として1番大切なのは自分は「何を求めているか」を見極めることで、それがぶれない秘訣と語っていた。成果主義が蔓延する現在においては、なかなか難しいことのように思われる。ある意味、頑固一徹者がノーベル賞の栄誉を浴するのかもしれない。本庶氏の功績は、がん免疫療法の画期的な発見ということだが、この発想もユニークで日本人的である。普通、がん細胞を防ぐ、やっつける方法なり療法を考えるが、人間が本来持つ治癒力に目を付けたところが凄い。逆転の発想と言えるのではないか。柔よく剛を制す柔道の技にも通ずる。この柔軟な発想は、本庶氏が生まれ、育ち、学んだ京都という土地柄の滋養も影響しているように思われる。千年の都の歴史を持つ京都には、多くの文化遺産が存在し、それに相応しい自然環境が残されている。つまり時間や空間を超えた雰囲気があり、流行や変化や既成概念に惑わされない軸のようなものがあるのかも知れない。かって京都大学の哲学教授であった西田幾多郎は、銀閣寺前から南禅寺に向かう琵琶湖疎水沿いの細い道を好んで散策し、「善の研究」という日本独自の哲学を編み出した。同じくノーベル化学賞を受賞した京都大学の福井謙一教授も、銀閣寺近くの自宅から東山界隈をよく散策して歩いたという。更に言えば、iPS細胞の発見でノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥氏も、研究所のある京都大学周辺を毎日にようにジョギングしているらしい。歩くにしろ、走るにしろ、京都の滋養ある空気に触れながらの有酸素運動によって、素晴らしい着想が生まれたことは事実である。京都大学から多くのノーベル賞受賞者が出るのも、独創的な優良企業が存在するのも、総じてこの「京都力」と言って過言ではないのではないか。少し自慢めくが、私の次男の息子も京都大学の理工系出身である。大学院まで進み、現在大手電機メーカーの研究所に勤務し、先端分野の研究に日々励んでいる。企業だから目的が決められ、実用成果が求められるだろうが、京都時代に培われた軸はしっかり持って精進して欲しい。実用研究といっても、ノーベル化学賞を受賞した京都に本社をもつ島津製作所の田中耕一氏の例もある。基礎にしろ、実用にしろ、自分は「何を求めているか」の姿勢は同じだろうと思う。いずれにせよ、凡人非才な私からすれば空を見上げるような話である。(2018・10・2UP

 

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電動バイクの旅

出川哲朗の電動バイクの旅番組「充電させてもらえませんか?」は、毎回録画して観ている。今回は、ハ重桜と菜の花シーズンに収録された秋田から青森までの日本海ルートT泊2日旅。自分も旅行をしてみたいと思った方面だったから興味倍増。やはり「日本の良さは日本海側にあり」という自説を裏付けるものであった。美しい日本海の景色があり、日本有数の米所である田園風景が広がり、自然に溶け込んだ川や湖があり、山側は手つかずの白神山地が連なり、随所に古い街並みが点在し、恵まれた海の幸と山の幸など、昔と変わらない日本の原風景が残っている。冬の厳しさを差し引いても、平和で長閑で人情豊かで暮らし易いのではないかと思う。今回も出川君はどこでも温かく迎い入れられ、スター並みに扱われた。出川君の凄いところは、そんな中にあっても、気負うことなく自然体で振舞っている。同伴ゲストの陣内智則君が、出川人気に改めて驚き、「出川さんは、もう大御所ですね」とおだてると、「いや、いや、とんでもない」と謙遜する出川君だが、これはホンネだろう。自分を弁えている点で、見掛けによらず頭のいい男である。出川君のお気に入りは、地元のおばあちゃん、おじいちゃん、子供たち。出川君の視線が温かい。年長者に対してはリスペクトをもって接し、子供に対してはちょっと兄貴ぶった態度を見せるところも微笑ましい。誰もが溶け込むことが出来る独特のオーラを持っている。器用な陣内君に対して出川君はあくまでも愚直を押し通す。これは、さんまもたけしも敵わない。話は変わるが、サラリーマン時代、酒の席で酔った支店長が「上に立つ人間は、馬鹿になることも必要だよ」と諭すように語ったことがある。ここで言う馬鹿とは寛容と忍耐と日光東照宮の3猿の「見ざる、言わざる、聞かざる」の意味を含む。上司が常にピリピリして剃刀のようであったら、部下は畏縮して組織がうまく機能しないという。普段ピリピリして剃刀のような支店長が言ったから、半分おかしかった。支店長も人心掌握に悩んでいたのだろうが、出川君を見ていると、案外そうでもないという気になる。立場関係なしに、自然体が1番と教えてくれる。リーグ3連覇を成し遂げたカープの緒方監督も、そんな感じである。番組の最後の方で、頂きの雪が白銀に煌めく青森の岩木山を前に、出川君の「日本中を色々旅して見て、日本が益々好きになったよ」のコメントも良かった。それこそが旅の醍醐味であるし、それに答えてくれる日本は素晴らしい国である。(2018・10・1UP)

 

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*イメージ写真です

 

食欲

衣食住は、人間が生きて行く上で大切な三原則である。働いて収入を得るのは主としてこのためである。家のないホームレス、裸で暮らすアマゾン奥地の原住民は特殊であって、普通はそうである。しかし、歳を重ねてくると、現状に甘んじて衣と住に関してはあまり頓着しなくなる。ショッピングに出掛けても、衣料売り場は素通り。家も雨露しのげばいいという気になる。つまりそこそこで妥協してしまう。年寄り相手では商売にならないというのも分かる。残るは食であるが、この食欲はなかなか衰えない。美味しいものを食べたい欲求はあきることなくある。1度だってまずいものは食べたくはないという拒否反応もある。母が93歳の時、ボケの兆候と慢性の腰痛のためやむなく特別養護老人ホームに入所した際、昼食時間を見計らって訪問したが、その時の光景は忘れられない。広い食堂で、3,40人のお年寄りが誰一人私語を発することもなく、整然と食事を取っていた。ある種、圧巻であった。全員無表情であったが、中には嬉しそうな表情を浮かべたお年寄りもいた。母も食事に集中し、言葉を掛けても上の空で、「邪魔しないでおくれ」という風にも受け取れた。入所したお年寄りにとって、1日三度供される食事は大切という思いがあったのであろう。それから約6年、満100歳まで生き延びた母の寿命を支えたのは、その旺盛な食欲のせいだろうと思ったものである。そう考えると、人間のメカニズムは実に単純なものである。生きるための食事を摂取する限り、余程の病気をしない限り、長く生き延びることが出来る。逆に言えば、「人間、食べれなくなったらお終いだ」である。60歳過ぎに末期の肺がんで亡くなった父がそうであった。最後の頃はほとんど食欲がなかった。栄養剤で補給しても限度がある。その間、病魔と食欲が父の内部で格闘していたに違いない。今でも覚えているが、病院から1時退院した日に見舞いに行くと、布団に横になった父が急に「うなぎの蒲焼が食べたい」と口にした。私は八方手を尽くし蒲焼を探し求め、父の枕元に供した。しかし、父は「ありがとう」と言うだけで、一切れも口にすることは出来なかった。病魔が食欲を打ち消したのだろう。もっと生きたいという欲求が、蒲焼に繋がったのだろうと思うと、切なかった。その数ヶ月後再入院し、家族に見守られ父は天国に旅立った。以後、私は食欲をとても大切なものとして考えるようになった。それは贅沢や飽食とは違う。もっと根源的なものである。彼岸花が咲く頃になると、父母を偲び改めて食欲に感謝したい気になる。(2018・9・26UP)

 

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ロウソクの灯り

今年は災害で、各地が大規模停電に見舞われた。不謹慎ながら電力事情の悪さから停電がしばしば起きた子供時代を思い出す。その都度ロウソクを用意するのだが、家族がロウソクの下に集まり、互いを確認しながら静かなひと時を過ごした。ロウソクの細い灯りは何ともいえない雰囲気があった。炎の揺らぎから、影も妖しく、周囲の暗闇にお化けが潜んでいるのではないかという不気味さも漂う。つまりやすらぎと不安を感じさせた。電気が点くと、ホッとすると同時に少しがっかりもした。それを懐かしく感じるのは、今の明るい照明では生まれようがないからかもしれない。もっともこれは今に始まったことではなく、エジソンが実用的な電球を考案し、それがロウソクやオイル・ランプに代わり、一般に広まった昔からである。日本で言えば、明治期である。電気の照明はありがたいが、同時にロウソクの灯りが醸しだす幽玄の世界が失われたことも確かだろう。文豪谷崎潤一郎は名著「陰翳礼讃」で、そのことを日本人の心性と美意識を絡まして書き述べている。特に印象的なのは、古典芸能の能と歌舞伎を具体例として取り上げている点である。能舞台の照明はロウソクの灯りが使われていたようで、能の魅力の多くはその灯りから導き出されていると指摘する。能は詳しくはないが、谷崎が言わんとする意味はなんとなく分かる。ロウソクの灯りが描き出す陰影の部分に、人を引き付ける美や霊性があるのだろう。室町時代の能役者・世阿弥の言う「秘すれば花」に通ずるものかもしれない。近頃では能も歌舞伎も外国に招かれ公演しているようだが、面白いのは能はヨーロッパ人、歌舞伎はアメリカ人に受けがいいということである。アメリカ人は、能の奥深さより歌舞伎の明確さを好むのだろう。古い街並みの残るヨーロッパと新興国のアメリカの都市の照明を見比べても、その趣向の違いは分かる。アメリカ追従の日本においても、その傾向があるのではないか。言い換えれば、社会も人間も平面的になっている証拠とも言える。谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」には、アインシュタイン博士の話も出てくる。来日した博士が列車で移動する際、窓から道路の電灯を眺め、「あゝ、彼処に大層不経済なものある」と電気の無駄使いを暗に戒めた。科学者らしい指摘だが、その光を追い求めた博士がE=mc2(エネルギー=質量×光速度の2乗)の公式を発見し、これが核エネルギーを生み出し、原子爆弾に繋がったというのはあるいは神の悪戯か。ともあれ、博士の戒めに従い、平時でも節電に心掛けたいものである。(2018・9・24UP)

 

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思うことあれこれ

○平成も来年の春には幕を閉じるが、改めて昭和の良い面と悪い面を引き継いだ平成は難しい時代であった気がする。途中、バブル経済の浮き沈み、高度情報化の社会変化、リーマン・ショックの不況も経験。阪神淡路大地震から東日本大地震、熊本地震、最近の北海道地震と隔年大きな震災に見舞われた。他にも火山噴火、豪雨、台風、原発事故の恐怖にも遭遇。低成長、低金利が常態化する中で、政治改革と行政改革は尻切れに終わった。財政赤字、年金危機、地方衰退、家族崩壊、所得格差などの緒問題も重なる。右肩上がりの昭和を生きてきた世代からすると、名のような平成とは呼べない「大変な時代」であった。しかし、そんな逆境にあって、若い世代には、「麦は踏まれて強くなる」のような新たな力が備わってきていると感じる。戦後73年続いた民主主義と平和が守られる限り、多くの人の活躍の場は開かれ、希望の灯は消えることはないだろう。戦争の悲惨さと不条理を描いたTBSで放映されたドラマ「世界の片隅に」を見て、改めてそう思う。

 

○携帯電話やパソコンは高度情報化社会の申し子であるが、その電気製品から発生するWi-Fiの電磁波が健康に及ぼす影響については、日本では余り問題視されていない。海外では電磁波が人体に及ぼす影響について様々な研究や実験がなされている。その先駆けの例として、2013年にデンマークの日本で中学生に当る女子生徒5人が行った実験が当時大きな注目を集めた。実験内容は、野菜400粒の種を、水・日光・温度の条件を同じにし、自然状態のままと、電磁波が発生する場所にそれぞれ6か所に分けて置いてみると、自然状態の方は正常に成長したが、電磁波の影響を受けた種の方は、発芽の段階で干からびたり、変種が現れたという。更に2017年の米・カルフォニア州公衆衛生局の研究発表で、電磁波による脳腫瘍、不妊、頭痛、学習障害,自律神経の不調などの関連が指摘された。他の研究でも不眠、不安定、生殖機能の悪化、甲状腺ホルモンの変調などの影響が示されている。日本では「臭いモノには蓋」の如くスル―されている現状を危なげに思う。

 

○先日のNHKニュースで、フランス政府が自転車の利用促進に向け、3億5千万ユーロ(約450億円)の基金を創設し、自転車専用道路や駐輪場などの整備を行い、3倍増しを図る計画が報じられた。自転車普及率の高いEU(欧州共同体)の中で指導的な立場を示す表れだ。背景に欧州人の環境意識の高さと健康志向があり、地球温暖化をもたらす温室効果ガスの削減と国民の健康増進があることは言うまでもない。日本でも、2017年に「自転車活用促進法」が施行されたが、自転車普及率はEU主要国に比べてまだまだ低い。政冶と行政が主体となってEUの自転車普及のノウハウを学び、環境整備に力を入れるべきだ。自転車は、環境と健康以外にも、経済的で災害時の移動手段や交通渋滞の緩和に役立つ。日本が発明した電動アシスト自転車の人気もあり、将来に期待が持てる。自然豊かな日本には外国人が羨むサイクリングコースはいくらでもある。今後、日本は強靭な防災対策と環境に優しい国づくりを目指すべきで、その目に見えない実質利益は大きいと思う。(2018・9・20UP)

 

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頭山(あたま山)

 いまはどこを見てもスマホだらけだ。どこの場所でも、スマホを覗き込んでいる。ここまで熱中させるのは何だろう。超便利で、興味を引く機能や材料が一杯詰まっているからだろう。現代版「魔法の小槌」である。しかし、空の上から眺めればスマホを覗きこむ人間の姿は異様に映るだろう。目を1点に集中させ、指先を器用に動かす様子から、何かにとりつかれたたような、従来の動きとはかけ離れたものを感じるだろう。このまま進めば、人間はますます自然界から遠ざかる存在になってしまうのではないか。脳も活動範囲を狭め、委縮してしまうのではないか。現場の対応能力を失い、仮想と現実の垣根がぼやけ、人間関係もデジタル化され、不都合に見舞われることも起きそうである。しかし、進歩は後戻りできないとなれば、人間は自らの優秀な頭脳と科学進歩によって、最後は自分の頭の中に身投げする落語の「頭山」のような運命を辿るかもしれないと冗談ながら思う。思えば「頭山」は良くできた話である。関西の落語家・桂枝雀が演じるのを聴いたことがあるが、奇想天外な話に笑い転げた覚えがある。粗筋は、「気短な(あるいはケチな)男が、サクランボを種ごと食べてしまったことから、種が男の頭から芽を出して大きな桜の木になる。近所の人たちは、大喜びで男の頭に上って、その頭を「頭山」と名づけて花見で大騒ぎ。男は、頭の上がうるさくて、苛立ちのあまり桜の木を引き抜いてしまい、頭に大穴が開いた。ところが、この穴に雨水がたまって大きな池になり、近所の人たちが船で魚釣りを始めだす始末。釣り針をまぶたや鼻の穴に引っ掛けられた男は、怒り心頭に発し、自分で自分の頭の穴に身を投げて死んでしまう。」(ウィキベディアより引用)。原話は、安永2年(1773年)刊「坐笑産」や徒然草の「掘池の僧上」など諸説あるようだが、発想が実にユニーク。何しろ、自分の頭にできた池に、自らが飛び込むのだから、宇宙の多次元的な要素もある。この話を思い付いた日本人は凄い。「頭山」は、今も傑作落語の1つとされている。不幸にも桂枝雀も、「頭山」の主人公のように突然世から姿を消してしまった。何かの因縁であろうか。訃報を聞いた時はショックであった。稀代の名人と呼ぶに相応しい落語家であった。私が1番愛した落語家は、林家三平と桂枝雀の2人であった。共に型破りな芸風であったが、どこか道化師のような覚めた目があった。落語を苦行と捉えていたのかもしれない。いずれにせよ、進歩と便利に無防備に身を任す人間が、「頭山」にならないことを願うばかり。(2018・9・15UP)

 

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無茶

先日、長男の息子と酒を飲み交しながら雑談した中で、「父さんは若い頃は無茶もしたんだね」と笑いながら言う。法事の席などで兄姉や親戚から、私の話を色々聞いたらしい。少年の頃もやんちゃであったが、高校卒業時の無茶も印象として強くあるのだろう。隠すつもりはなく、息子に話す必要がなかっただけである。発端は大学受験の失敗。北九州大学と山口大学の2校に願書を出したが、滑り止めの北九州大学に失敗し、山口大学は無理と勝手に判断した。さりとて、当時は田舎の高校から大学に進むのは3分の1程度、しかも祖母、両親、妹(姉は結婚しすぐ上の兄は工業高校を卒業し就職して大阪に出ていた)に兄夫婦と姪2人が加わる同居家族、1人家で無為の浪人生活を送ることは無理に思えた。悩んだ末、東京に出て働きながら浪人生活を送ることを決意。話せば反対は決まっているので、山口大学の受験前々日の夜、親から貰った旅費、宿泊代と溜めた小づかいを懐に、置き手紙を残し、黒い学生服に古いバッグを携え家出同然で東京行きの鈍行夜行列車に乗った。夜霧に煙るプラットホームの乗客は自分一人。駅員が妙な顔をして見送った。置き手紙にはこれまで育ててくれた感謝の気持ちと、「東京に出て、自活して大学を目指す。本当に困った時は東京の親戚を頼る。生活の目途は立っているので心配無用」と書き残した。事前に学生雑誌の広告で、東京の新聞販売店が地方の浪人生を住み込みで雇っていたのを知っていた。列車は約20時間後の早朝に東京駅に到着(鈍行は急行、特急を先に行かすため待ち時間が長い)。硬い木製の椅子で腰は痛いわ、顔は石炭の煤で薄汚れ。駅のトイレで顔を洗い、まだ時間があるので上野公園に行き時間を潰す。公園屋台のソース焼きそばを買い、滑り台の天辺に座って食べる。紅ショウガが効いて美味かった。上野の森から眼下の東京の景色を眺め、胸は解放感と期待に包まれ、不安感はちっともなかった。9時過ぎ、神田の新聞販売店紹介所に出向き、即採用された。新聞販売店を選んだ理由は、家が兼業で新聞販売店をしており内容が分かっていた。その日に赤羽新聞販売店に配属され、すぐに家に電話すると、母が東京まで飛んで来た。母の兄が東京蒲田で公認会計士をやっており、その邸宅で母と面会。私の元気な様子を見て安心したのか、母は東京見物を少し楽しんで郷里山口に戻った。新聞販売店で働きながら浪人生活を送り、翌春、法政大学社会学部に合格。受験は都立大学と法政大学の2校に絞ったが、都立は駄目だった。その年の夏休みに帰省すると、駅まで兄が単車で迎えに来てくれ、五衛門風呂に薪をくべる母の「無事でよかった」の嬉し泣きが窓越しに聞こえたのも覚えている。その後も授業料の援助以外はアルバイトをしながら貧しい大学生活を送った。この間、東京の親戚には色々世話になった。下関の叔父も用事ついでに目白の安下宿に訪ねて来てくれ、池袋のレストランでハンバーグ2皿をご馳走になったのも忘れない。今思えば、もっと金銭的に親に甘えても良かったかと思うが、親に面倒を掛けたくないと思いが人一倍強かった。親からすれば可愛げのない子供だったかもしれない。農家の大家族で育った家内も親に甘えた経験はほとんどなかったというから、戦後すぐに生まれた子供は、親の苦労を目の辺りにして育ったから、大なり小なりそうかもしれない。その点、戦前の裕福な環境で育った1番上の兄や姉は、結構甘え上手であった。それはともかく、以後の就職も転職も結婚も、親とも誰とも相談せず自分で決めた。「自分の判断は正しい」という妙な自信だけが頼り。結婚してからは家内の管理の下、子供の影響もあり落ち着いた生活を送るようになった。と言うより家族を養うのに精一杯であった。まさにニーテェの言う「人が親に成長するのは子供の力」である。同僚からは、「結婚してから変わったな」とよく冷やかされた。家庭的になったことと人付き合いが悪くなったの両方が込められている。息子が知っているのもその頃の私である。人間には色々な面がある。無茶もあれば、用心深いところもある。田んぼの中に蹲くまっている爺さんが、戦争時は鬼軍曹だったということも、日だまりで居眠りしている婆さんが、若い時分はヤンキー娘だったことも、それが人生だろう。言えることは、東京時代の6年間がなかったら、単なる田舎者で終わっただろう。東京に出たおかげで若干垢抜けたのである。奇しくも東京五倫(1964年)から大阪万博(1970年)の間の戦後日本の絶頂期であった。(2018・9・10UP)

 

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夢の喧嘩

今はそうでもないが、一時期、喧嘩する夢をよく見た。勢い余ってベッドから転げ落ちたり、ベッド脇の壁に拳骨で穴を開けたこともあった。危ないのでベッド横にクッション代わりに段ボール箱を並べ毛布を置いた。壁の穴はシールで塞いだ。原因をあれこれ考えるが、別段喧嘩する相手もいなし、夫婦仲もまあ円満な方だし、これはやっぱり大腸癌手術の後遺症のせいかなと考える。外見は健常者だが、常に頭の中には排便障害という引け目があって、自由に行動することにブレーキが掛る。何をするにもお尻と相談という有様。つまり便秘と頻便を繰り返す後遺症から生じるストレスが原因だろう。なぜストレスが夢の喧嘩と結び付くのかは、喧嘩を考えると分かる。喧嘩は敵と戦うものである。自分を優位に計りたい、束縛や邪魔に立ち向かっていく攻撃的な態度。つまり根底に生存本能が働いている。ガキ大将だった子供の頃はライバル相手によく喧嘩したものである。さすがに大人になればそんな訳にはいかないが、喧嘩は強いに越したことはないという意識がどこかにある。ただし、喧嘩は一般で言う暴力とは違う。暴力は理不尽で不道徳で反社会的なものであるが、喧嘩には理由があり、明確な相手がおり、それを打ち負かすことを目的とする。戦国時代で言えばサムライ同士の一騎打ち。だから喧嘩した相手とは後日仲良く出来るが、暴力の相手とは、一生仲良く出来ないという理屈が成り立つ。しかし、困ったことに、私の夢に出てくる喧嘩の相手は正体を現さない。ストレスが敵だから、常に顔なしオバケのような得体の知れない相手である。取っ組もうとしてもスルリと体を交わし、パンチを食らわしも空を切る。負けじと、飛び掛かり、足蹴り、バックパンチを繰り出すが、その結果がベッドの転げ落ちと壁の穴という訳。いつまでたっても決着がつかいないのも歯がゆい。ある日、家内にその話をすると、大笑いされた。大きな寝言は嫌がるが、ベットで格闘するのは、幼児がベッドでバタバタしているような感覚で受け止めている。私の苦悩が分かっていない。ちなみに家内の部屋にはエアコンがあり、熱帯夜には一緒にと誘われるが、夜中家内に襲われる恐れより、家内を喧嘩相手と勘違しては大変という思いから、固辞している。それにしても、人間生きていく上で、様々な敵と遭遇するものである。まさかストレスまでという気がするが、この推測は間違っていないだろう。それがどうなのだ、と言われればそれだけの話であるが(苦笑)。喧嘩の夢を見なくなったのは、私の衰えを意味するものなのか?。(2018・9・5UP)

 

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北の大地

 「少年よ、大志を抱け!」。明治初期、北海道の札幌農学校(現北海道大学の前身)の初代校長として赴任した米国人のウイリアム・スミス・クラーク博士の有名な言葉である。感心するのは、この言葉に触発されるように優れた人材が続々と誕生し、多くが日本の近代化に貢献したという事実だ。当時の卒業生を上げれば、新渡戸稲造(教育者)、内村鑑三(思想家)、広井勇(土木工学)、宮部金吾(植物学)、志賀重昴(地理学)を始め、枚挙に暇がない。中でも、「武士道」の作者として名を馳せた新渡戸稲造は、教育者、農学者、行政官、国連事務次官など八面六臂の活躍をし、日本の発展に大いに寄与した。なぜ未開で極寒の大地にここまでの人材が集まったのか。当時の北海道の学校に行くのは、相当な覚悟が要っただろう。本土でも出世の道はあったはずなのに、困難を厭わず北海道を選んだのはなぜか。目的の農業開発が国の基幹産業になるという先見性と、世界の日本を見つめるグローバルな視野が備わっていたからであろう。それと学生の多くは、旧武士の次男、三男坊であったから、進取の気風に溢れていたのだろう。クラーク博士は、聖書をベースにした倫理学でそれに火を付けただけだったかもしれない。日本人で言えば陽明学で倒幕の志士たちを育てた吉田松陰と似ている。そこに教育の本質を見るが、当時の農業が先端分野であったことも功を奏した。副次的に様々な学業、文化、科学、思想が生まれた。その結果、多くの農業技術者を送り出したと同時に、傑出したグローバル人材も育て上げることが出来たと言える。これは日本にとって奇跡の賜物である。ところで、今年は北海道命名100周年に当る。それまでは「蝦夷地」と呼ばれ、「異民族が住む地」という未開の大地であった。南下を窺うロシアの脅威もあり、日本領土を内外に宣言するために、命名された。当初の候補名は「北加伊道」で、後に「加伊」を「海」に変更した。ここでふと、「北帰行」という言葉が浮かぶ。小林旭が歌う同名の歌謡曲があるが、言葉の由来とされるモンゴル人のことである。かって世界半分を支配したモンゴル人、何度も中国王朝を築いたモンゴル人、その並外れた戦闘能力、政略手腕にも関わらず、情勢が不利となれば、何の拘りも無く、生まれ故郷の北のモンゴル平原に舞い戻った。まるで母親の懐に飛び込むようにである。北海道の人は 外に働きに出ても、後年戻る人が多いという話を聞いたことがある。北の大地には、そこで暮らした人だけが知る奥深い魅力と再生エネルギーがあるのかも知れない。(2018・9・1UP)

 

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生き方

8月中旬、78歳のボランティアの男性が山口県大島で行方不明になった2歳の男児を救出した出来事は、日本中に大きな感動を与えた。丸2日150人体制で捜索した警察が見つけられなかったのを、事件を知り急遽大分から車で駆けつけたこの男性が、「幼児は上にいく習性がある」とわずか20分程度で、山中の沢で男児を見つけ出したのだから、神がかっている。しかも、「オレなら見つけ出せる」という自信があったと言うから驚く。過去に同じような成功例を経験していたようである。知れば、男性はボランティアのプロで、仲間の間では「師匠」と呼ばれほどの有名な人らしい。ボランティアの動機について、「私は別府市内で鮮魚店を営んでいたが、65歳を機に商売をやめ、社会への恩返しに、ボランティアをしようと決心した」と天の指示を受けたような面持ちで話していた。東北大震災からこの夏の西日本豪雨災害にも、ボランティア要員として懸命に働く男性の姿も、過去の映像として流された。その純粋な熱意とパワーに頭が下がる。その1週間後だったか、テレビ番組「人生の楽園」で、70歳前後の夫婦が、都の職員を定年退職した後、海の美しさに惚れ島根県益田市の海沿いの古民家に移り住み、主人はボートで釣り、奥さんは貝殻を使った手芸を楽しむ暮らしぶりが紹介されていた。夫婦の信条は、「余生を楽しむ」に重点が置かれている。見ていて羨ましくもあった。この上の2通りの高齢者の生き方は対照的であるが、自発的に生きがいを掴んだという意味においては同じ。違うのは社会や他者との関わり方である。一般的に、人は歳を取ると、心静かな余生を送りたいと無為な生活を送る人が大半だろう。それは責められることではなく自然の成り行きと思われ、その意味で、この2組は特殊なケースと言える。それを可能にしたのは、自分の人生を大切にする気持とそれを実践する勇気と行動と健康であろう。高齢者の「生きがい」が盛んに言われているが、口で言う程簡単ではない。燃え尽き症候群の如く、味気ないものにするのも無念な話。サムエル・ウルマンは「青春の詩」の中で、若くあるためには、創造力、強い意志、情熱、勇気が必要と説いている。分かっているが、肝心なのはモチベーションである。気づけば「いつの間にか年寄りになっていた」も多いだろう。歳月は人を待たない。充実した余生を送るには、それなりに若い時分からの心構えというか準備が必要かもしれない。人生1度きり、生き方はそれぞれと実感する。(2018・8・27UP)

 

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