田舎茶房

 

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タイ・バンコク旅行

2月の先々週、パスポートの使用期間(有効期限とは違う)が迫ってきたこともあり、急遽思い立ち、寒い日本を抜け出し、南国タイのバンコクを5日間旅行した。福岡空港発の格安航空便とB級ホテルをセットしたフリープランを利用。あっという間の5日間であったが、以下、その旅行記と写真である。

 

<1日目>

気温2度の早朝、広島駅6:05発の新幹線で博多駅に向う。博多駅から地下鉄(空港線)に乗り換え福岡空港の国内線ターミナルに到着。シャトルバスで国際線ターミナルに移動。これが結構離れており、時間を食う。福岡空港の弱点を示す。無事搭乗手続き、荷物検査、出国審査を済ませ、定刻10時30分離陸する。格安航空便ジェットスターだから座席シートもサービスも機内食もその程度のものであったが、操縦士の腕は良かった。3人掛けで、家内が窓側、隣が私の2人だけも助かった。ともあれ、約5時間30分のフライトで気温33度のバンコクに一足飛び。

 

 

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到着したスワンナプーム国際空港は世界一でかい空港。成田空港の3倍のスケールで、タイの威信を賭けたハブ空港という。巨大なチューブ形をしており、ロビー、通路、コンコースは世界中から集まった人たちで溢れ返っている。入国審査に向う長い通路の途中で急いでトイレに入ったものだから家内とはぐれてしまった。通路を行きつ戻りつ探したが見つからない。携帯も使えないので困ったが、ひとまず入国審査を受け、確実に会える荷物受け取り場所に行くことにした。入国許可をもらってゲートを出るともう後戻りは出来ない。不安を抱えながら、荷物受け取り場所に行くと、家内が荷物の横で待っていた。お互い顔を見合わせホッとする。機内で顔見知りになったゴルフツアーのおっさんたちも、「よかった」と声を掛けてくれた。入国審査で、私は日本人専用、家内は離れた別の列に並んだのも見つけにくかった理由であったが、国内感覚で勝手に行動すると危ないと反省する。

 

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空港出口で待ち受けていた地元旅行社のトヨタのワゴン車に乗り込み、高速道路、渋滞の市街地を通り、40分程度でバンコク市内のホテルに投宿。古いホテルだが、国鉄の駅、地下鉄の駅のすぐ近くで、チャイナタウンもチャオプラヤー川も徒歩圏内にある便利な場所にあった。印象を言えば、新旧雑多な下町、日本で言えば昔の東京上野駅界隈に建つ古いシティホテルと言う感じであった。

 

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部屋は思った以上に広く、奇麗で、11階の部屋からの眺望も良かった。一息ついた後、荷物を解き、シャワーを浴び、コーヒーを飲んだあと、夏服に着替え、フロントで両替を済ませ(レートは1万円で手数料を引かれ2600バーツ程度)、近くにあるワット・トライミット(黄金仏寺院)の見物とチャイナタウンに夕食を兼ねて出掛けた。ホテル前の道路は駅前ということもあり慢性渋滞で、騒音と排気ガスに包まれている。歩道は店の商品や屋台に占拠され、歩行者はその間を歩く感じ。所々で浮浪者や野良犬も寝転んでいたりする。間違って踏んだら大変。道路の横断も命懸け。横断歩道も信号も当てにできない。つい、「みんなで渡れば怖くない」式になってしまう。大型バスが迫った時はヒヤッとした。しかし、こんな状況でも、事故は少ないようである。動体視力と慣れか。

 

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ワット・トライミット(黄金仏寺院)は独特の高い塔のおかげですぐ見つかった。敷地の広さは小さな公園程度であるが、地元の人に愛されているという感じが伝わる。金色に輝く黄金仏にお参りする。正確には、本堂の純金の黄金仏は時間的に拝めず、その前に置かれた小さなレプリカ風の黄金仏を拝む。最終日には、本堂の黄金仏を拝むことができた。少し前に祭事でもあったのか、院内は信者たちの賑わいの余韻が残っていた。観光客を相手にお金をせびる少年グループも徘徊していた。

 

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寺院の裏門を出て右に行くべきところを左に進んだために、薄暗いデープな地域に迷い込んでしまった。路上でホウキを持っているおばさんに、「チャイナタウンは?」と尋ねたら、親切に教えてくれた。「コープクンカップ」と礼を言うと、いい笑顔が返ってきた。「なるほど、タイは微笑みの国か」。タイに来て最初に接した笑顔であった。ちなみに、タイ語の「ありがとう」を意味するこの「コープクンカップ」と、「おはよう」「こんにちは」「さよなら」を意味する「サワッディーカップ」(男性はカップ、女性はカーと発音する)を正しく発音できるように覚えていると、相手からも喜ばれる。やはり、どの国でも挨拶は大事である。

 

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自分のバッグにコンパス(磁針)を入れていたことに気づき、それで方位を確認しながらチャイナタウンの中心街に入る。おびただしい数の屋台と極彩色が目立つ大通りを歩いて見て回る。喉が渇きお腹も空いたので表にオープンテラスを備えたシャレた中華風ホテルの1階レストランで食事する。私はハイネケン(日本のビールは置いていない)、家内はスイカジュースを飲み、タイ風料理3品を注文。味付けは甘めで、日本人好み。生ビールを追加し、料金は1000Bちょっと。初日だから気張ったが、応対も良かったので「グッドミール、サンキュー」とチップも払う。店の客は大半は白人(欧米人種)であった。ここまでの印象だけで、バンコクは白人天国と気づく。当然ながら、英語は通じても、日本語は全く通じない。戻る途中、セブンイレブン、ファミリーマート、マックスバリューの店があることも確認する。空港でハプニングはあったが初日無事終了。

 

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<2日目>

今回、バンコク観光の最大の目玉である三大ワット見物ツアーとチャオプラヤー川のディナークルーズは事前にネットで申し込んでいた。ディナークルーズは家内の希望。ホテルで朝食を済ませ、8時に迎えに来たトヨタのワゴン車に乗り込み、ワット・プラケオ(エメラルド寺院)、ワット・ポー(涅槃寺)、ワット・アルン(暁の寺)、昼食、宝石店、免税店のツアーに出発。ガイドは、見るからにタイのおっさんタイプ。色は浅黒く、人相も良くない。しかし、接している内に、人間の温かみを感じ、意気投合した。説明も丁寧で、難しい学術的な話もする。なかなかの勉強家である。田舎から出てきて独力で日本語を学び、今のガイドの仕事を得たという。「毎日、日本語の勉強です」と言う。逆に日本のこともあれこれ質問され、その都度、分厚いノートに書き込んでいた。九州の別府に行ったことがあり、その時の思い出話を楽しく語る。「タイ人のほとんどは、日本に憧れていますよ」という。話し方が、どことなく黒人タレントのサンコンに似ている。兵役も仏教の修行もしたという。苦労人の一徹さを感じさせる男である。

 

まだ比較的に観光客の少ないワット・アルン(暁の寺)から見学を始めましょうと、船着場から渡船に乗り西岸に渡る。チャオプラヤー川は土色に多少濁っているが、水草が漂い、水量も豊富で、流れに変化があり、躍動感に満ちている。生命の源、生きている川という感じが生で伝わってくる。この川周辺に新しい王国を築いたことは、タイにとって大正解だった。

 

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ワット・アルン(暁の寺)に足を踏み入れる。美しい公園という感じだが、巨大なトウモロコシの形をした大仏塔に近づくにつれ、その迫力、豪華さに圧倒される。ガイドの勧めで大仏塔に上る。結構な急勾配だ。色鮮やかな中国陶器片のモザイクで飾られた高さ75m、台座の周囲234m、その大仏塔を4つの小塔が取り囲み、須弥山を具現化ている。一周すると、バンコクの景色が360度望める。神々しいパワーを感じると同時に、古代の素朴な匂いも伝わる。魂が天空に吸い取られ浄化されて戻ってくる、そんな爽快感を味わう。「豊饒の海」の三部作「暁の寺」を書いた三島由紀夫がこの寺に魅せられたのも分かる。ガイドは「タイ(中央部)には高い山がありません。だから山に対する憧れ強いのですよ」と言っていたが、ワット・アルンはタイ人が造り上げた理想の山のシンボルなのだろう。

 

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船付場に戻る途中で、可愛らしい小学生の女の子3人に捕まった。外人観光客に話し掛け、自分たちのアンケートに答えてもらうという授業の一貫らしい。ガイドを通じて国、名前、タイの印象などを質問された。その答を真剣な面持ちで用紙に書く込む姿が愛らしい。最後にガイドさんが一緒に記念写真を撮ってくれた。思わず少女たちの頭を撫ぜたくなるが、タイでは子供の頭を撫ぜるのは宗教上ご法度である。ご用心。

 

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再び渡船で東岸に戻り、船着場近くにあるワット・ポー(涅槃寺)を見学する。暑さが勢いを増してくる。すかさず、ガイドさんが2本の冷えたミネラルウォーターを差し出す。こまめに水分補給するように言われる。タイではミネラルウォーターの消費量はすごいだろう。ワット・ポーに入り、日陰を求めるように巨大な涅槃仏の礼拝堂に足を踏み入れる。まずは黄金の涅槃仏の大きさに目を見張る。全体を眺めることは不可能で、頭部、胸部、肢体、足、後ろの部分を順番に拝みながら見て回るようになっている。お釈迦様は、後年は寝転んで弟子たちに説教を説いたと言われるが、その大らかさ、安らかさが伝わるようだ。涅槃仏の発する黄金の光が心の奥まで染み込んでくる。奈良の大仏様が放つ銅の輝きと同様に、照度に差はあれ、鉱物の光には人の心を惹きつける魔力をあるようだ。見回せば、見物客の大半は白人、真剣な面持ちで涅槃仏に手を合わせ拝んでいる。その姿を見るにつけ、世界で起こっている宗教対立がいかに偏狭なものかが分かる。

 

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次に回廊に整列良く並ぶ金仏像を拝み、本堂に入り金色に光輝く本尊と対面する。その神々しさに平伏する感じで、お賽銭を差し入れ正座して参拝する。それを見た同年代の白人夫婦も正座を試みるが、うまく出来ないので途中で諦めた姿がおかしかった。腰高で図体が大きいから無理なのだ。外に出て、堂内で上を見つめ過ぎて首が痛くなった家内を、ガイドさんがマッサージをしてくれる。「私はマッサージの資格も持っていますから、大丈夫よ」と本気モード。その様子がおかしく写真に収める。そのガイドさん、案内中に、本堂の前で飛び上がる写真を撮り合っていた若者グループに向って、大声で叱っていた。「中国人はマナーが悪いから困ります」と渋い顔。なかなかのサムライである。

 

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最後はワット・プラケオ(エメラルド寺院)の見物。ワット・ポーからワゴン車に乗り、王宮広場近くで下りて、炎天下の中、正門入口まで続く長い行列に並ぶ。ワットの最上ランクでスケールが大きい分、観光客の数も半端ではない。その観光客も多種多様である。タイが世界の人々の人気を集めている理由は何か。ワットを代表とする煌びやかな仏教文化、タイ人の親しみ易さ、豊富な美味しい食べ物、南国の気楽な風土、治安の良さ、地の利に加え、タイの物価の安さも大いに関係するだろう。要するに、費用対効果に優れているのだ。更に、タイが親欧米派であることも印象を良くしている。タイの白人観光客が我が物顔でエンジョイしている姿が目立つ。タイ人も、その辺の白人の心をしっかりと掴んでいる。ガイドが述べた「アジアで日本とタイだけが、欧米の植民地支配から逃れることが出来た」のはその通りだが、似ている面もあるが、まったく異質な国という印象も受けた。

 

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さて、エメラルド寺院。絢爛にして豪華にして精緻である。よくもこれほどまでの見事な建造物、仏教美術を造り上げたと感心する。これに携わった名もなき名工たちこそ、ゴッド・ハンドと呼べる。比べて、日本の古い寺院やワビ、サビの文化がなにやら寂しいものに思えて来る。おそらくタイの人が日本の寺院に参拝しても、あまり宗教パワーは感じないのではないか。日本の仏教は島国故の純粋培養、タイの仏教は様々な宗教の混合体。これは、ガイドもそれらしきことを自慢げに述べていた。また、現在の王国の基礎を築いたラマ1世から現在のラマ9世までの国王の優秀さなくしてはタイの繁栄はなかっただろう。「継続は力なり」を分かり易く伝えている国がタイだ。現在も軍政下で戒厳令が敷かれているが、旅行中、その緊張を感じることはなかった。少し前に高架鉄道の駅内で小さな爆発事件があったせいで、地下鉄の通路で手荷物検査を受けたぐらいか。ただ、貧富の格差、民族間の反目、既得権側とそうではない側との溝は薄々感じる。立派な王宮も見学し、院外に出るとすかさずガイドが冷えた2本目のミネラルウォーターを差し出してくれた。その水をハンカチに浸し、家内の首筋に当ててやる。

 

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ホテルで点心などのタイ風ランチとデザートを食べ、コーヒーを飲み、しばし休憩した後、宝石店と大型免税店に案内された。特別に欲しいものはないので、小さな工芸品、香料、菓子など両方で2000B程度の買い物をして、午後3時頃ホテルに戻った。親切に務めを果したガイドさんに200Bのチップを渡したら、恐縮するほど頭を下げられた。名刺(日本の文字で書かれている)を渡され、今度来るときは是非指名して下さいと言われた。

 

ホテルに戻り、シャワーを浴び一息つく。日中歩き回って身体に溜まった熱が中々冷めない。冷房温度を強にして、冷えたジュースを飲みながらベットに横たわり、テレビのNHK国際放送を見る。日本の大雪の様子がニュースで流れていた。タイから見ると日本は遥かな北の国だな、と実感する。、例のガイドさんが「タイの人たちの一生の夢はですね、日本の雪景色をみることですよ」と言ったセリフもあながちリップサービスではないと感じた。

 

5時頃に服を着替え、今晩のツアー「チャオプラヤーディナークルーズ」の集合場所であるリバーシティーの船着場まで歩いて行く。ホテル横の川沿いの道を真っ直ぐチャオプラヤー川までの約1キロの距離である。日陰になる川側の並木道を歩く。途中浮浪者が寝転んでいたり、座り込んで粗末な食事をしている。野良犬もウロウロして薄気味が悪い。帰りは、反対の商店側を歩いた方が安全のようだ。15分程度で、リバーシティのホテルに到着。受付カウンターでチェックインを済ませ、周辺を散策。この辺りは、超高級ホテルが建ち並び、リッチでゴージャスな雰囲気が漂う。買い物を楽しんだり、カフェテラスで過ごしたり、涼しい川風に当たりながら、思い思いの写真を撮り合っている。チャオプラヤー川は色々な表情を見せて飽きない。船着場からは様々に趣向を凝らした観光船が離発着し、荷を積んだ大小の船が頻繁に往来している。貨物列車のようなコンテナ船がタグボードで曳航されている。海の港施設まで運ぶのだろう。チャオプラヤー川が人や物資を運ぶタイの大動脈であることを実感する。

 

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7時前に照明で着飾ったクルーズ船が到着。高さ8.5m、長さ43.5m、重さ338トン、乗客定員250名。広い船着場でタイ舞踊を鑑賞した後、乗船。私たちの席は先端近く、生バンドの舞台の横にある川側であった。乗客はアジア系、白人系半々の割合。簡単なセレモニーの後、バイキング形式の食事会が始まる。飲み物はハイネケンとスイカジュース(別料金)、料理はタイ風、洋風、中華風、和風と豪華に揃っている。目の前に広がる夜景が素晴らしく、特に、ライトアップされた暁の寺の幻想的な美しさに船上から歓声が上がる。いつしか、バンドでは「上を向いて歩こう」を演奏していた。サクックス奏者が私の席まで来て、目の前で演奏してくれた。しかし、日本の曲はその一曲で、後は全て洋楽。終盤になり、歌にダンスに、船上はお祭り騒ぎの様相。盆踊りなら自分も参加できたのだが・・。約2時間、夜景も食事も舞踊も音楽も素晴らしかったが、東洋的な落ち着いた演出も欲しかったというのが正直な感想。観光に関しては、タイは英語圏であることを改めて痛感した。昼と夜のバンコクを満喫した2日目が無事終了。

 

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<3日目>

3日目は、半日かけてゆっくりとアユタヤ観光を楽しむことにした。ホテルでたっぷりと朝食を取り、アユタヤは蚊が多いと聞いたので長袖に着替え、防虫スプレーを携え(マラリヤ、デング熱が怖い)、8時前に、ホテルの目の前にあるファランボーン駅に行く。タイの国鉄の始発駅である。外観は巨大なかまぼこ型でヨーロッパ的な雰囲気が漂う。広い駅内もレトロムードに溢れている。窓口で、8時20分発急行の乗車券を求める。値段は2人で60Bという。「ノー、セカンドクラス、プリーズ」と言うと、若い男の駅員はパスポートを見せろという。メモしたパスポート番号を示すとパソコンで確認してOK。値段は2人で490B。駅員が笑顔で「ハブア、ナイストリップ」と言ったので、「サンキュ〜」と応える。昔観た洋画のワンシーンを思い起こさせるプラットホームに出て待機している列車に乗り込む。サービス係付き、座席指定のリクライニングシート、エアコンがよく効いている。5分遅れで発車。乗客はほぼ若い日本人と白人。出発当初に自由席から紛れ込んだ白人男性が追い出しを食らった位で、車内は平静そのもの。若い日本人たちはスマホとイヤーホーンのお決まりのスタイルである。

 

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列車は都会を抜け、田園地帯をガタゴトと突き進み、約1時間20分でアユタヤ駅に到着。周囲緑一色のアユタヤ駅はローカル駅らしい開放感に満ちている。駅前のバラック商店街を通り抜け、渡し場でボロちい小船に乗り、向こう岸の中州に渡る。船着場周辺では貸し自転車(バイク)屋が並び、小型三輪車(トゥクトゥク)が待機している。自転車で回りたかったが、暑さに弱い家内を考え、小型三輪車を利用する。運転手は真っ黒に日焼けした陰気な中年男。3時間600B(相場価格)で話が付き乗り込む。固いシートに横座り、乗り心地が悪い。しかし、風に当たりながら短い距離を移動するには便利。乗る前に、ワット・マハタート(木の根に埋もれた仏像の顔が有名)、ワット・プラ・ラム(王朝初期の寺院)、ワット・プラ・シーサンペット(主要な寺院)、ヴイハーン・プラ・モンコン(最大のブロンズ製大仏)、ワット・ローカル・スター(草原に寝そべる巨大釈迦像)の確約は取る。

 

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暑ささえなければ、比較的に狭い範囲を見て回るアユタヤ観光は楽である。着いた段階から、アユタヤが醸し出す土地の魅力を感じ取ることが出来る。四方川に恵まれ、広大な田園地帯を抱え、太陽の光が惜しみなく降り注ぐ、農耕を主体に考えれば、誰でもこの地を治めたくなるだろう。奈良文化の発祥地の明日香村と似たような純朴な雰囲気を感じる。しかし、栄枯盛衰は世の定め。「つわものどもの夢の跡」、そういう無常観も漂わす。心なしか、ワット・マハタートの木の根に埋もれた仏像の顔にも、そんな歴史の無念さが込められているように見えた。

 

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次にヴイハーン・プラ・モンコン(最大のブロンズ製大仏)の金襴豪華な仏像を拝顔し、ワット・プラ・シーサンペット(主要な寺院)の遺跡群を見て回り、最後のワット・ローカル・スター(草原に寝そべる巨大釈迦像)では、待ち受けているおばさんから花と線香を買い、釈迦像にお祈りを捧げた。ほぼアユタヤ観光を見終えたが、途中で、象が観光客を乗せて歩いているのも見物できた。家内に薦めたが、「いい」と言う。高所恐怖症?、怖い?、「乗り心地良さそうに見えない」。本当は暑さにへばり気味であった。木陰に座って休むこともしばしば。緑の林を通り抜ける風が心地いい。そのまま昼寝したいぐらい。「アユタヤ王朝が、なぜ攻め滅ばされたか?」、緊張感を喪失させる居心地よさも原因にあったのかもしれない。実際、ここで激しい戦闘があったこと自体、信じられないほど平和で長閑な場所であった。ともあれ、アユタヤが時空を超えたアジアが誇る世界文化遺産であることは実感出来た。

 

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時計を見ると観光始めて2時間少々経過。運転手は次にアンコールワットの模型場所を勧めてくれたが、それは断り、駅に戻るように指示する。駅に到着し、正味2時間半なので500Bを手渡すと、陰気な顔に満面の笑顔を浮かべ、「コープクンカップ」と手を合わせる。帰路も列車を利用することにした。着いたらすぐ目の前がホテルだから、これほど楽なことはない。次の列車を調べたら普通しかなかったので、普通2枚を購入する。料金はなんと30B。行きは急行、セカンドクラスで490B、所要時間は20分程度の差。サービスに多少の差はあるものの、この価格差は何なのだ。料金規定がいまいち分からない。おそらく地元民優遇処置なのであろう。

 

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普通だから窓は開放、座席も固定式の4人掛け。車内は地元民でほぼ満席。走り出したら、自然の風が吹き込んできて暑さをしのいでくれる。<昔の夏の列車は、みんなこうだったな>。窓側に能面のように化粧した下唇が妙に厚い大人の女性と中学生らしき可愛らしい少女が、言葉も一切交わさず無言で外の景色をじっと眺めている。母と娘のようだが、2人とも目に深い憂いが含まれている。<こんな目、久しく日本ではお目にかかったことがないな>。通路反対の席は、口を空けたまま眠りこけているみすぼらしい老婆、無言で前を見つめているワイシャツ姿の中年男、斜め前は細く切った果物をコリコリとかじっているおばさん。会話らしいものはほとんど耳に入らない。<タイの人は、押しなべて静かで寡黙だな>。

 

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車内では普段姿の売り子が頻繁に往来する。<列車に乗り込み勝手に商売しているのだろうか>。しかし、売れている気配はない。車窓からゴルフ場が目に入る。炎天下の中でプレーをしている。<客の大半は、日本からのゴルフパックの連中だろう(旅行社の男がそう話していた)><来る機内のゴルフのおっさんたち、夜も楽しむぞとはしゃいでいたな><金のある連中は、うんと金を落とせばいいさ>。田畑では働いている農民の姿は皆無。<朝か夕方に働くのだろうか>。暑さと戦いながら土木作業している人たち<大変だな>、死んだように昼寝をしている人たち<天日干しにならんのだろうか>、バンコクに近づき貧民街を抜けるが、そこに映し出される貧しい人々の生活の様子、線路脇の空地で屋台の仕込みをしている家族たち<働けど働けど、わが暮らし楽にならずか>。バンコク手前の駅で、窓側の母娘が立ち上がり、網棚から厚いビニュールで包まれた2つの荷物を下ろすのを手伝う。どっしりと重くやわらかい。食材かなにかのようであった。<田舎から市場に卸すためにやって来たのか><都会で働く父親を訪ねるのだろうか>。母親の口から「コープクンカー」と聞こえた気がした。下りしな少女がチラッと私に振り向いた。私はそっと頭を下げた。<この母と娘に幸あれ>。約1時間40分でファランボーン駅に到着。むしろ帰りの方が早かった感じである。行きも普通の自由席で良かったかと思ったが、観光客全員がそれを利用すれば、1番困るのはタイの国鉄。半々で良かったと納得する。

 

駅で何か軽いものでも食べようを思ったが、家内がホテルに戻りたいというので地下道を通りホテルに戻る。家内はグロッキー気味。汗が出ない分、体温調整が難しい人なのである。家内はすぐにシャワー室に飛び込む。エアコンを強にセットする。その間、私は近くのファミリーマートに出向き、ビール1缶、カルピスソーダ1瓶、おむすび3個、サンドイッチ、フランクフルトソーセイジを買って戻る。それ食べながらテレビを点けると、NHK国際放送でまたもや日本の雪の情報を伝えている。続いて日本文化の紹介番組も繰り返し流している。無論、全て英語版である。

 

太陽が傾き涼しくなったので、服を着替え、地下鉄でシーロム駅まで行き、ルビニン公園とシルク専門店ジム・トンプソン、タニア通り、シーロムコンプレックスで食事するつもりで出掛けた。シーロム駅に降り立つと、そこは日本の大都市と同じ光景。モダンな高層建築が建ち並び、街区も整然として、歩く人々も都会人ぽい。日本のビジネスマンも目につく。地下鉄2つ駅を過ぎただけで、これほど街の様子が変わるとは驚きだ。屋台もどことなく清潔そう。まずは横断歩道を渡り正面にあるルビニン公園に行く。真ん中に大きな池がある大きな美しい公園だ。散歩やジョギングを楽しんでいる人たち、集団で体操している人たち、池辺で肩を並べて座っているアベック、芝生に寝転んでいる人たち、市民公園の典型の絵柄が映し出されている。この界隈で生活をしておれば、東京もニューヨークも変わりないだろう。折りしも、夕日が都市の景観と公園をコントラスト良く照らしている。昼から夜に裏返る時刻である。

 

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家内がシルク専門店は「いいわ」と言うので、そのままシーロム通りに戻る。路上は人人の波。片手でアルミの銭入れを進行方向に突き出し、脇に杖を抱え、顔に固定したハーモニカを吹きながら物乞いをしている盲目(?)の老人の姿は鬼気迫るものがあった。手元にコインがあればすぐに差し出しただろう。他に不具者の物乞いも目に付いた。安売りセールの店の前では、女性客が群がっている。白人グループが路上ライブかPR活動かで騒いでいる。都会の明と暗がくっきり。「もうこの辺でいいか」と、目の前のシーロムコンプレックスのビルに入る。世界の食べ物が揃っている食堂街をぶらつく。どの店頭にも写真入りメニューが置かれているのはいいアイディアだ。名物のタイスキの店内は日本人らしき観光客で占められている。この時期、鍋は食傷気味。迷った挙句、ラーメン店に入り、ビール、スイカジュース、五目ラーメン、焼豚ラーメン、餃子、チキンサラダを頼んで食べる。普通に美味かった。店は待ち客が並ぶほどの繁昌ぶり。さすがに白人客は少なかったが、地元の若い人やアジア系の人には好まれている感じだ。夜の繁華街をもっと楽しみたい気もあったが、アユタヤ観光の疲れもあり、お尻の具合も良くないので、そのまま地下鉄でホテルに戻る。家内が気を利かせ酒の肴と菓子と飲み物を買いにファミリーマートに行ってくれた。部屋から夜景を眺めつつ、パイプを吹かしつつ(灰皿が置かれ喫煙可)、日本酒を飲みつつ、3日目無事終了。

 

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<最終日>

いよいよ最終日。午前中にホテルのチェツクアウトを済ませ、部屋を空けなければいけない。そして、夜11時にホテルに旅行社の車が空港に送るために迎えに来る。時間はあるが、何か縛られている感じ。家内に案を示す。午前中はホテルのプールで泳ぐも良し、タイマッサージを受けるも良し、気侭に過ごし、チェツクアウトを済ませ、荷物をホテルに預け、昼前から王宮周辺からカオサン通りまで散策して時間を潰す。再びホテルに戻り休憩した後、チャイナタウンを散策し、食事する。家内も同意したのでそうすることにした。年寄りの頭は既に帰りモードで、無難に時間を潰すことに傾いてしまう。しかし、実際は帰りの荷物づくりなどをしている内に、午前中は瞬く間に過ぎた。ちなみに4日間、部屋係りに規定のチップと日本から持参したチョコレートを置いた。そのせいか、廊下ですれ違っても愛想が良かった。

 

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昼、ホテル前からタクシーでワット・ポーまで行く。そのタクシーだが、メータータクシーはなかなか拾えない。ホテル前で待機している小型三輪車は法外な値段を吹っかけてくる。しかも道路が混雑している有名ワット方面は単発で行くのを嫌がる。已む無く、やっとつかまったタクシーに、メーターの倍近い値段150Bを示して乗車OK。これを理不尽と見るか、需給相場と見るか。おそらく、その両方である。ちなみにタクシー車のほとんどはトヨタである。ハイブリッド車はまだ普及していないようだ。ワット・ポーの前でタクシーを下り、川向こうに暁の寺が望める公園から王宮横の川側の良く整備された道をシラバコーン大学方面に向って歩く。歩道も広く、緑地帯も多く、散策にはもってこい。道路に雑貨品を並べた露天も多く、それを見ながら歩くのも楽しい。

 

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大学前の道路は、エメラルド寺院の観光客で溢れ返っており、通り抜けるだけでも大変。物売りもしつこく付き纏い、振り払うにも苦労する。王宮広場に近づくにつれ、また静かな散策が楽しめるようになる。ワット・マハタートの園内で水分補給のためしばし休息。途中で有名なコーヒーショップに入る予定が、人ごみに惑わされ見過ごしてしまったのだ。休憩場所の目の前の王宮広場では、王宮騎兵隊が馬の訓練をしているのが眺められた。

 

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少し進むと国立博物館があったので、涼みたい気持ちもあり、400B払って見学する。立派な建物の割りには比較的に簡素なギャラリーで、展示品も有り触れたもの多く、特別目を引くものはなかった(後からパンフレットを見たら、別棟の展示コーナーもあった)。タイの戦いの歴史を描いた精巧な模型と絵画、日本の造船所がタイに送った商船の模型が目を惹いたぐらいか。改めて、タイ人と象との深い関わり、鎖国政策を続けた日本とタイの歴史的な交流の浅さ、タイ人が戦闘的な民族であるということを認識する。これは東南アジアの民族に共通する性格ではないか。陸続きで国境を接するのだから、戦闘意欲を失っては国は守れない。タイの男たちが時折見せる鋭い眼光、狡猾そうな笑み、不屈な態度、全て歴史から生まれたものであろう。タイは「微笑みの国」と言うが、それは強かさの裏返し。そして、その根底に仏教の精神が脈々と生きている証を目にする。

 

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次に、同じ敷地内にある巨象を模した植栽が入り口にある礼拝堂を見学する。鏡のように磨かれた艶やかに光る床、天井、壁一面に彩られた高貴な赤色の装飾が見事で、奥の黄金色の仏像が一段と輝いて見える。どことなくキリスト教の豪華な礼拝堂と似ていなくない。敬虔な気持ちでお参りを済ませる。

 

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国立博物館を出て、ほぼ隣接する国立劇場のある道路を左折して再び川沿いの道に出る。更に川に向う細道を抜けると、川沿いの遊歩道に出会う。チャオプラヤー川の景色を鑑賞しながら北に進む。川風が心地よくベンチで休憩。釣りを楽しんでいる老人がいたが、釣れている気配はない。遊歩道の所々に洒落たカフェテラスも目に付くが、ほとんど若い白人で占拠されている。年寄り夫婦、何となく入りにくいムードが漂う。

 

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桟橋から右に小さな土産店が並ぶ細道を抜けて大通りに出る。露天のねえさんに「カオサン通りは?」と尋ねると、無愛想に「そこ!」と教えてくれた。カオサン通りに繋がる横丁に入れると、そこもまた白人で一杯。生まれてこの方、これだけの白人の数を生で見たことがない。道路も店も食堂も、ほとんど白人。風体怪しげな刺青、長髪、髭面、ヒッピー風も屯している。異境に紛れ込んだ恐怖さえ覚えるほどだ。カオサン通りがパック・パッカーの聖地というのも分かる。不思議な雰囲気を醸し出すカオス空間である。陳列する商品も種類が豊富。家内はショールを物色するが目移りして決められない。

 

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カオサン通りに面するホテルのオープンレストランに入り食事をする。飲み物はチャンビール大瓶とスイカジュース、頼んだ料理は、具沢山のタイ風焼麺。座った席からカオサン通りの雰囲気、人物模様を眺める。東洋人もいるにはいるが印象は薄い。白人との存在感の差は歴然である。食後、家内はショールが気になり、レストラン横ある両替店で換金し、「買ってくる」と席を立った。しかし、しょんぼり戻って来た。「値段交渉しようにも、言葉が全然通じないもの」。その悔しさ分かる。と言って一緒に行って交渉する気も起きない。派手なショール、日本でする機会あるのか、である。

 

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時計を見ると3時を回っている。腰を上げ、民主記念塔方面に向って歩き始める。賑やかなカオサン通りを抜けて古い商店街に入るが、どこも日本で言うシャッター通り状態。閑古鳥が鳴いている。近道をしようと裏道に入ると、テーブル2,3つ置いただけの露天食堂が営業している。数人の客が、命を繋ぐのは食だけと言う感じで、背中を丸めて黙々と食べている。そして、ここでも黒ぽい野良犬が寝そべっている。毛が極端に短く、体系は西欧の狩猟犬のように細身ですらっとしているが、顔からして東南アジア特有の犬種かもしれない。これが夜になると活発に動き回るのだろう。暗闇で出くわしたら怖いだろう。でも、タイの野良犬はみなおとなしそうである。仏教国のタイだからかもしれない。

 

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レストランで長く休憩したせいか、太陽の強い日差しが突き刺すように痛く感じられ、堪らずタクシーを拾いホテルに戻ることにした。凡そ4km、昔で言えば1里を3時間余り、昼間の暑い中をぶらぶら散策で潰した計算になる。普通の観光とは違ったバンコックの生の空気を感じることが出来たと一応満足した。

 

ホテルに戻り、冷房の効いたロビーのソファで身体の熱を冷ました後、滝のあるプール脇の長椅子に移り昼寝する。涼しい風が心地よい。ホテルの従業員も、「時間待ちをしている人たちだな」と言う目で見てくれている。

 

5時を過ぎ、気分を新たにして、チャイナタウンに出向く。屋台食堂はどこも盛況である。しかし、使った食器をポリバケツの水で洗っているのを見ただけでげんなり。老人の胃はタフではない。途中、大木の根っこの隙間に身を溶け込ますようにじっとしている浮浪者を見る。アユタヤの木の根っこに埋まった仏のように木と完全に同化している。本人もそれを希望しているのか。また、いつも決まった場所で大きな袋を横に足を投げ出し座っている男もいた。物乞いとも違う。そこに座っていることで自分をアピールするように平然としている。前出のガイドが私たちに話しかけた言葉が浮かぶ。「お二人は年金生活者ですか?。時々旅行もされるのですか?。羨ましいですね。タイでは年寄りでも働かないと暮らしていけません。厳しいです」と半ば悄然、半ば怒りを込めて言う。反面、こうも思える。豊富で安い食べ物に恵まれ、住居も衣服も最低限度あれば過ごせる気候、地位も名誉も金も関係なしで生きていける。ある意味、タイの懐の深さのようなものも感じてしまう。見かけだけは計れない幸福度もある。ついでに書けば、国連が発表した「世界の国別幸福度ランキング」(2013年)によれば、日本は43位で、お隣りの韓国よりも低いのである。

 

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初日訪れたワット・トライミットに立ち寄り、純金の仏像を拝む事ができた。そして、チャイナタウンに入る。街全体が中国系パワーに満ちている。人間の欲望が渦巻き、凌ぎを削り合っている。店と客はモノと金の交換相手に過ぎない。サービスや付加価値は必要ない。そんな割り切り良さも、ある面気持ちがいい。横浜、神戸の中華街にはない生生しいパワーが炸裂している。しかし、面白いのは、中国系の大きな百貨店に入ると、そのパワーが萎縮して見える。店のバランスやコンセプトを作り出すことが中国人は不得意と感じた。初日に入った中華系ホテルのレストランでスイカジュースだけを頼んで飲む。ちなみに旅行中、家内はスイカジュースばかり飲んだが、南国フルーツが大の苦手なのである。こればかりはどうしょうもない。チャイナタウンの深部に入れば、また違った面白い顔が見えるだろうが、歩き疲れたので切り上げることにした。

 

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マックスバリューでサンドイッチとジュースを買ってホテルに戻る。ロビー横の応接コーナーの奥のシートに座り仮眠しながら時間を潰す。係員が照明を少し暗くしてくれた。夜遅くでも、ホテルの客の出入りは激しい。客層は6,7割が白人、2,3割が中国系、日本人は1割程度か。日本人は態度も服装も控えめでグループで動く。中国人はビニール袋を手に、鉄砲玉のように言葉を交わす。白人は紳士淑女もいれば、大胆に振舞うのもいる。前のボックスに集う白人の若い女性グループ(女子大生か)、ブロンド、赤毛の個性が引き立ち華やか。何やら議論している。彼女たちの目から仮眠状態の私たち老夫婦は、どんな風に映っただろう。多少気味悪く見られたのではないか。なんて考える内に、旅行社が迎えに来た。「空港が混雑しているので、早めに行きましょう」と、急き立てるようにワゴン車に誘導する。空港は不夜城の様相を呈している。どのコーナーも人が蟻のように集っている。旅行社の男は搭乗手続きから出国まで付き合ってくれた。その間、男と立ち話を交わす。日本からのゴルフ客を迎える為に、今晩は空港で車中泊するという。タイ人には珍しく色白で商才のありそうな男だが、今のガイドの仕事に見切りを付けるという。「最近は、旅行社もガイドなしを薦めるので、年々仕事が減っている」と残念がる。「タイはどうでしたか?」と聞くので、「大変良かったよ」と答えると相を崩して喜ぶ。「ただ、お金や時間にルーズなところがある」と言うと、「タイ人は腹が悪いですからね」とニヤリ。「金の仏像も、ビルマ人が奪ったとされていますが、私はタイ人が盗んだと思いますよ」と苦笑。「ぜひ、またタイに来てください。お待ちしています」と丁寧に挨拶する。「ありがとう」と気持ちほどのお金を渡した。各搭乗口と繋がる長く翼状に延びる免税店通りを見て回り、最後の買い物でバーツを使い切り、定刻通り、機上の人となり、タイに別れを告げた。

 

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タイはリピート客が多いという。大いに分かる気がする。今回はバンコク中心に通り一遍の観光であったが、今度タイに行くとすれば、日本と気候風土が似ているという北部のチェンマイを訪れてみたい。それも、避寒を兼ね、安宿を都合して1ヶ月程度滞在したい。タイには、まだまだ未知数の魅力があるような気がする。昔の日本のふるさとに似た、温かな包容力を感じる。そこに居ることに違和感を感じない。同じアジアの血のせいだろうか。芭蕉の「奥の細道」の冒頭の句ではないが、月日の経過も人間も一緒に繋がれた旅人である。旅を重ねることで、人生のクオリティーが高まることは間違いない。出来る出来ないは二の次だ。旅を夢見よう。最後に、単語を並べた程度の私の英語(実用英語検定の資格は持っているのだが)、タイ人には通じたが、白人には通じないだろうと思う。日常英会話、少しマスターしないと、と感じた次第である。(2015.2.23UP)

 

カイゼン

私の職歴は5つある。最初は商事会社の営業、不動産会社の開発業務、自分で考案したカプセルショップで始めた弁当販売、トヨタ自動車のセールスマン、そして、30代後半独立開業し現在に至る不動産業である。総じて独立気運が強い中で、トヨタ組織の中で働いた期間が短期間であったが1番勉強になった気がする。全国のトップセールスマンが本社の名古屋研修所に集められ、1週間缶詰でトヨタイズムを叩き込まれた。カンバン方式で有名な生産ラインの見学をはじめ研修内容は様々あったが、中でも、各グループに分かれての仕事の改善を促すPlan(計画)・Do(実行)・Check(反省)の実践的カリキュラムは、以後の商売に大いに役立った。個人の小さな不動産業ながら30年以上続けられたのもそのお陰だ。トヨタの強みは、今や世界に知られているカイゼン(改善)である。人間の弱点は、慣れ、上の圧力に弱い、自惚れ、怠け。これを自覚して、日々改善する努力が大事だ。まず実現可能な80点を目指すこと、そのために知恵を絞る。メカニズムから営業まで、トヨタはこれが徹底している。だから、順風で驕らず、逆風で慌てずの経営が成り立つ。改善は小さな改良の積み重ね。組織でマヒした感覚を呼び覚ますインセンティブ(動機付け)。300年間に及ぶ徳川幕府を支えた三河武士の魂がトヨタに宿っている。考えて見れば、人間の進歩は改善の積み重ねの成果。不思議に思うのは、日本企業のトヨタがこんなに改善に努力しているのに、国の政治や行政がその姿勢とノウハウを学ばないことである。口では改革、改革とお題目を唱えるが、効果は一向に現れず、世界一の借金大国の汚名を被り続けている。これは、改革という大袈裟な言葉がいけないのではないか。改革は劇的な時代の変化がないと無理だ。近代の扉を開いた明治維新、敗戦によるGHQ(連合軍最高司令部)による昭和改革がそうである。平時においては、コツコツと改善を行う方が理に適っている。それができないのは、政治、行政の体質と組織に欠陥がある証拠。政治学者の丸山眞男が指摘した日本特有の「無責任連鎖システム」である。今の日本の政治家、行政官をトヨタ研修センターに送り込み、改善について学ばせる必要が大いにある。(2015.2.2UP)

 

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台湾映画「KANO1931海の向こうの甲子園」

昨年台湾で製作され評判になった映画「KANO1931海の向こうの甲子園」が日本でも公開されたので観に行った。あらすじは、日本統治時代、台湾の嘉義農林中学(現在の高校)の日本人と台湾人(漢族+原住族)混成のまだ1勝もしていない弱小野球部員を、新任の日本人監督が精神面、技術面を鍛え上げ、見事台湾大会を勝ち抜き、晴れの甲子園に出場し、決勝まで勝ち進み、エースの指の怪我で惜しくも準優勝で終わるという実話をテーマにした映画だ。メーンはスポ根のヒューマンドラマだが、野球と共に日本統治の状況、日本人と台湾人との関わりの様子が描かれており、貴重な歴史ドラマに仕上がっている。私がこの映画に興味を覚えたのはそれであった。統治時代の台湾を知りたいと思った。当時の街区、道路、港湾、鉄道、水道、病院、学校などのインフラ整備、台湾の農業発展に努力した土木技師の八田與一の功績品種改良に取り組んだ農業技師の活躍も取り上げている。台湾最大の軍港で栄えた基隆市の様子が画面に出た時は、胸が高鳴った。あたかも自分の祖父、父、店と家屋敷がそこにあるような錯覚を覚えた。それだけで映画を観た甲斐があった。映画の中では、台湾人を差別視するセリフもあるが、実際には、教育すれば立派な国民になると信じていた人が多かったと思う。私の祖父、父もそういう考え方で台湾人に接したようだ。若い使用人には、お金を出して上の学校に通わせていた。礼儀作法、文芸、演劇、映画などにも馴染ませたと聞いた。戦後、母が台湾を訪れた時、当時の使用人たちが集まって感謝を表す歓迎会を開いてくれたそうだ。それは、当時台湾で暮らす日本人の多くが、一等国民としての誇り、道徳、責任を持って台湾人と接したからだと思う。映画の決勝シーンでは、街頭ラジオの前に集まり一緒になって応援する日本人と台湾人、試合終了後の甲子園に詰め掛けた55千人から沸き起こる嘉農チームに対する賞賛コールは、真実に近いものがあっただろう。マー・ジーシアン監督の狙いは、統治時代の台湾人、特にアミ族などの原住族の活躍を描くことで、台湾人の誇り、素晴らしさを訴えるものであったと思う。選手たちの純粋で元気溌剌とした姿、最後の大型客船で台湾に戻る甲板で、選手たちが歓声を上げて準優勝楯を台湾の方向に向けるシーン、卒業後の選手たちの立派な経歴の説明書きがそれを感じさせてくれた。しかし、彼らの活躍のバックには日本と言う大きな存在があったことは確かだ。野球だけでなく、統治時代に日本人がまいた種が、戦後の台湾発展の礎になったことは紛れのない事実である。それを、野球をテーマに台湾の監督が描き出してくれたことに感謝しながら、3時間余りの映画を観終えた。日本では作れそうで、作られない映画であった。(2015.1.29UP)

 

 

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東海林さだおと椎名誠

東海林さだおは、漫画家としてもエッセイストとしても稀有な才能の持ち主である。私も大ファンだ。彼の面白本(文と絵)は、寝床の友として長らく愛用している。年が近いこともあるが、彼のモノの見方、考え方が面白いほど分かる。芯があるようで柔らかい、定型があるようで奔放、浅いようで深い、重いようで軽いなど、内容は奥深くて幅広い。読む人によって時代感覚に差はあるだろうが、読めば面白味に嵌る。70歳過ぎた今も、新聞、週刊誌の連載など凄い仕事量をこなしている。その活力の源は何か。察するに、少年時代に疎開した栃木での田舎体験と独自の人生哲学があるようだ。自然豊かな田舎暮らしを通して、遊び心、空想力が培われた。彼の人生哲学ともいえる、人間社会をシニカルに俯瞰して見る姿勢、使命感は、「早大漫研の三羽烏」と称され、早くして亡くなった園山俊二、福地泡介に対する悔しい思いがあると思われる。3人には三者三様のカラーがあったが、東海林がその遺志を受け継いでいる面も大いにある。思えば、優れた3人の漫画家を同時に生み出した当時の早稲田大学は凄かった。自由闊達なエネルギーに溢れていた。しかし、当時日本全体がそうであった。その東海林と作家の椎名誠は親しい関係にあるというのは多少意外である。しかも共著も多く出している。全くタイプの違う2人がどう結び付いたか知らないが、同世代のエッセイストで、自分流に歩いてきた足跡が似ていたからだろうか。東海林は繊細な努力家タイプ、椎名は気侭な冒険者タイプ、互いに異質に惹かれるように結び付いたのかもしれない。椎名にも、東海林に似たおかしさもあるが、自分の経験や考えをストレートに述べるもの多く読み易い。その椎名が、先週の「サンデー毎日」のエッセイで、「日本の街並み・景観は世界の先進国の中で一番汚い」と怒っている。世界を渡り歩いてきた彼が言うのだから説得力がある。東海林も、いまの日本の様子にやたら腹を立てているようだ。戦後昭和を生きてきた2人、昔は貧しかったが、社会全般に有り余る自由な空気と醍醐味があった。今は形に嵌められた味気なさ、行き場のない息苦しさがある。豊かさがそれを奪っているとすれば、皮肉なことである。ともあれ、昭和のオヤジたちが怒りたくなる気分、自分もよく分かる。面白味の欠けた社会に、救いの道はない。(2015.1.26UP)

 

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年の感覚

家内が、ボクの服装や振る舞いを見て、「お父さんは、年の感覚が鈍い」とよく申します。ちなみに、ボクは、家内のお父さんじゃない、夫、もしくは旦那だ。家内がお父さんと呼ぶようになったのは、子供に「お父さん」と呼ばすために、自分からいい始めたのがきっかけだったように思う。それはともかく、65を過ぎた辺りから、ことあるごとに、家内はボクが年以上に若ぶっていると文句をつけるのだ。「お父さんは、もうだれが見ても立派な年寄りですからね」とクギを刺す。確かに(苦笑)、でも、ボクは今年70を迎えるが、それさえもピンと来ないのだ。頭は髪はフサフサ、耳も目も歯も足腰もいまのところ正常である。たまに歯垢を取るため歯医者に行くと、「丈夫な歯ですね」と多少の嫌味を言われるぐらいだ。酒もタバコも食事も普通にうまい。気になこといえば、大腸手術の後遺症でお尻の具合が悪いのと多少ボケが始まったぐらいか。でも、ボケは家内も同時進行だから、時に2人の会話はへんてこなものになる。「えっと、ほれ、あれだ」「えっ?、ああ、あれね」、テレビ画面で「この女優さん、○○だったな」「違うわよ、○○さんよ」。実は2人とも間違っている(笑)。そんなボクだが、「年だな」と確実に感じることが一つある。ゴルフの飛距離だ。こればかりは年を裏切らない。200ヤード以上飛んだドライバーがいつしか200ヤード以下に、後も小刻みに落ちていく。身体のエンジンの衰えが痛いほど分かる。ある意味、ゴルフは残酷なスポーツである。距離を気にせずゴルフを楽しむことの出来る年寄りもいるが、大抵は屈辱に耐えかねて、ゴルフからオサラバするのではないか。と言って、すぐ切り替えて、ゲートボールやグランドゴルフをする気にもならない。公園でゲートボールを楽しんでいる年寄りの輪にいる自分が想像できない。この、年に逆らう、あるいは粋がる気分は何なんだろう。要は、見栄ぱりだけかもしれない。男には大なり小なり、ドンキ・ホーテのような側面があるのでないか?。本人は格好良くふり回っているつもりでも、周りから見ると滑稽というあれである。家内は、それを諌めているのである。年に逆らわない生き方、これ存外難しいようである(笑)。(2015.1.22UP)

 

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日々雑感

●読書離れが言われている。特に若い年代は活字より漫画を好む傾向があるという。活字で書かれた本と漫画の違いは、想像力の領域の広さだろう。例えば、川端康成の「雪国」の冒頭の一節「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」も、志賀直哉の「城の崎にて」の自分の死に脅えた「或朝の事、自分は1疋の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見た。足を腹の下にぴったりとつけ、触覚はだらしなく頭へたれ下がっていた」も、宮本輝の「蛍川」のホタルを幻想的に描いた「蛍の大群は、滝壺の底に寂莫と舞う微生物の屍のように、(中略)、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞い上がっていた」も、読む人にとってそれぞれの想像力を駆り立てる。漫画だと、描かれた一面の絵しかない。これは、脳の省力化、画一化、マヒ化を意味する。これでは本来人間が備えるべき豊かな想像力、情緒は育たないのではないか。危惧するのは、想像力、情緒の働かない社会が持つ危うさだ。人間社会は、脳の働きがもたらす思索、行動で成り立っており、それがうまく機能しないとなれば、国の安全、安定、発展にも悪影響を及ぼす。又、判断力や抑止力の欠如から犯罪を誘発する要因にもなるだろう。最近耳にする「日本人は劣化しているのではないか?」もあながち否定は出来ない。本気で、活字の持つ力を見直さないといけない。漫画は、食事で言えば軽食、デザートであろう。

●庭木の手入れが年を取るにつれ億劫になる。30年前に植木市で買った木を素人なりに庭に植えたツケが回ってきている。ケヤキやカシやハナミズキは成長が早く、脚立に上っての枝切り、剪定作業は結構重労働だ。その点、プロの職人が植えたモッコク、キンモクセイ、クロガネ、百日紅、山茶花は生長が遅く、病気にも強く、手入れが楽だ。日本の庭に合っていると感心する。大きく成長する木の場合、適当な高さになったら幹枝を切って、成長を抑えるようにする。そうすれば管理が楽になる。もっと早く気づいてそうすればよかった。自分で庭木を植える場合、木の性質、成長具合などをよく調べてから植えた方がいいようだ。(2015.1.19UP)

 

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共生観

イスラム教を風刺する漫画を度々載せていたフランスの週刊紙社が襲撃されるテロ事件が起きた。尊い12名の命が奪われた。漫画に激怒したイスラム過激派による犯行である。テロは断じて容認できないが、背景には、キリスト教社会とイスラム教社会との根強い対立があるようだ。キリスト教もイスラム教も、元はユダヤ教から分派した宗教と言われ、いわば兄弟喧嘩の要素を含む。原因は、宗教観、価値観、倫理観の違いにあるようだが、それがヨーロッパの移民政策とグローバル化の荒波の影響で、より顕著になり、かつ、双方の経済力、教育文化、軍事力の格差がより一層の対立を強めるようになった。キリスト教社会が唱える自由主義、言論の自由は、強者の意味合いがあり、反発するイスラム教社会には弱者の僻みがある。共に、唯一神教の持つ傲慢さと脆弱性が潜む。もともと宗教は、厳しい環境から生まれたものである。だから、どんな宗教の教義にも、祈願、救済、免赦、倫理、慈愛、互助、天国、地獄、奇跡、治癒などが含まれる。中でも仏教には、「生老病死」の苦しみ、悲しみを和らげる役割と同時に、共生と言う観念がある。善人悪人を問わず雑多な人々が、往生を遂げて同じ船に乗って浄土(他界)に渡ろうという大らかさがある。ある意味、人のいい宗教である。本来、キリスト教にもイスラム教にも愛があるはずである。それが片寄った愛に変化したのはなぜか。近代から現代に至る時代変化とキリスト教徒の優越主義、白人至上主義が、宗教が持つ平等精神を歪めた面は否定出来ない。圧倒的な力を有するキリスト教社会の主導で、果たして世界を丸く治めることが出来るのか。ともすれば、排除、征服、支配が強まる危険性がある。そうであるならば、宗教の圧迫、暴走である。更に、グローバル化が火に油を注ぐ結果になる。解決の道筋は、やはり共生観を持つことに尽きる。きっちりと統一化されたフランスガーデンではなく、種々雑多の花の咲くイングリシュガーデン、借景と植木や石や池を巧みに取り入れた日本庭園のような多様性のある世界観ではないだろうか。それを世界の子供達に共通に教え込まないといけないと思う。(2015.1.16UP)

 

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地方創生

NHKの情報番組「クローズアップ現代」で、島根県の海士町が取り組んでいる創生プロジェクトの成功例を伝えていた。海士町は島根半島の沖合約60キロに浮かぶ隠岐諸島の一つで、漁業、畜産、農業を生業とする町である。地理、気象条件が厳しく、過疎化は当然の成り行きで、町の存続自体危うい状態であった。そこで、20年前から町長が陣頭に立ち、独自の創生プランを策定し、地道に実施した成果が実り始めたという。感心したのは、応募で町に来る新規就労者に対する援助金を捻出するため、町長をはじめ議員、職員が給与カットを受け入れたことだ。就労者の定着率も上昇に転じて、町に子どもの姿が目立つようになった。町長は「わが町を成功モデルとして、後に続いてくれればいい」と語っていた。全国で新たな成功例が誕生することを期待したい。地方活性化プロジェクトは、国、地方自治体でかなり前から実施されている。私も過去に、この手の企画に参加したことがある。瀬戸内にある市が実施した漁業体験である。漁業を3日間体験し、新規就労者を募るという目論見である。小型船舶の免許を取ったばかりで、船の操縦と漁に興味があった。子供時分、夕方港の波止場から船のエンジンを響かせ一斉に漁に出る船を見送るのが好きだった。夕日に映えた漁師たちが勇ましく輝いて見えた。その漁師の船に乗り込み、深夜操業のハモ漁を手伝った。その感想をレポートに記し、市と県に提出した。漁は貴重な体験だったが、企画自体はセレモニーの趣であった。宿舎は観光ホテルが用意され、説明会、漁師との面談会、料亭での歓迎会、魚市場見学会、懇談会と続いた。漁協の役員、市と県の担当者が参加し、飲食、酒が供された。協力した漁師にも相応の報酬が配られたはずである。国や県の交付金で行われた企画であっただろうが、どこか行事的な雰囲気で、費用対効果については疑問を抱いた。漁協も漁師たちも仕方なく企画に協力している印象は拭えなかった。正直、新規就労者の獲得は難しいだろうと感じた。やはり、創生プロジェクトには企画力、実行力、真剣味、リーダーシップと、安定的な経済基盤を築くことが鍵であると思う。(2015.1.12UP)

 

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心と目標

元旦の朝は真っ白い雪景色であった。白銀の如く輝く1年であって欲しい。それにしても、1年の速いことか。1年の長さは20歳までは同じで、以後は段々短くなると言うが、還暦を過ぎると、1年が半年ぐらいに感じる。日々の変化、感動、情熱が薄くなるせいだろう。脳の働きが鈍化している証拠である。そして、今年は古希を迎える。ふと、サミュエル・ウルマンの「青春の詩」の冒頭の一節が頭に浮かぶ。「青春とは人生の一時期のことではなく心のあり様のことだ」。人は心のあり様によって動く。年齢に関係なく、心を若く、情熱を保ち続けることが大事と説いている。さて、その心とは、どの辺にあるのか。頭か、心臓か、臍下三寸(丹田)か。おそらく、神経細胞が張り巡らされた身体全体にあるのだろう。道元禅師の言う「身心一如」である。身体と心は一体で頭皮から足の爪先まで心が宿る。人に道を説き、安心を与える僧侶たちが、厳しい修行を積むのも、そういうことだろう。つまり、身体と五感を整えることの大切さだ。健康に留意し、清潔を保ち、規則正しい生活と栄養バランスを大切に、運動、趣味を楽しみ、知識と教養を積む。これなら、凡人の私でも出来る。それを心掛ける1年にしたい。商売で独立して30年以上になるが、年初めに1年の目標を立てる。そのための行動計画を練る。これがあるのとないとでは、やはり違う。人には、目標に向けて動く習性はどうしてもある。船で言えば航路だ。少なくとも無為に過ごすよりは効果はある。仮に達成率が低くとも、経験は蓄積され、目標に近づくようになるからがっかりはしない。目標を立てることは、すなわち意志を持って行動することを意味する。それは単純にアスリートたちを見ても分かる。彼らを動かしているのは目標である。目標を勝ち取るための計画、実行が決め手だ。言い換えれば、人生は目標の産物かもしれない。さて、問題は、歳をおうごとに目標が見つけにくいことだ。半分、惰性に身を委ねるしかないが、1時間のウォーキングとジョギングの継続と、中途で挫折したドストエフスキーの「カラーマゾフの兄弟」の読破、新聞投稿記載300回(全国紙、地方紙で現在292回)、他細々を手帳に記した。何とか達成したい。(2015.1.6UP)

 

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