田舎茶房

 

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圭子の夢は夜ひらく

演歌「圭子の夢は夜ひらく」で一躍脚光浴びた元歌手の藤圭子さんがマンションから飛び下り自ら命を絶ったという衝撃ニュースが伝わった後に、2020年の東京五輪招致が決定したのは、何か因縁めいたものを感じる。藤さんは、人気歌手の宇多田ヒカルさんの母親でも知られているが、われわれの年代からすると、デビュー当時から謎めいた魅力を持った歌手であった。黒いお下げ髪と大きな瞳の美少女の面影を残しながら、諦観めいた大人の歌を味わい深く歌い上げた。そこには、彼女の背負った過去が、北海道旭川で育ち、小さい頃から浪曲師の父、三味線瞽女(ござ)の母3人で旅回りの苦労を積み重ねた哀歓が滲み出ている。その薄幸そうな陰鬱なオーラと深みのある歌声が人々の心を掴んだ。しかし、当時は、東京五輪から大阪万博の間にあって、国中が高揚感に包まれ、希望の光に溢れていた。戦後の右肩上がりのピークを迎えていた時代である。だから余計に、彼女の歌の沈んだトーンと現実との落差に、最初聴いた時は、「なんと、暗い歌か」と軽いショックを覚えたものである。思えば、彼女のあの怨みの篭った哀調じみた歌声は、「日本人よ、そんなに浮かれてはいけない」という警句だったのかもしれない。世の中、決して明るさ一辺倒ではない。必ず闇の部分もある。東京五輪、大阪万博の裏側にも、日米安保延長を巡る激しい反対運動、赤軍派のよど号ハイジャック事件、大規模なベトナム反戦デモ、惨たらしい水俣病事件、治安都市を襲った3億円強奪事件、東大紛争を始めてとする全国規模の学生闘争、日本の将来を憂いての三島由紀夫割腹自殺などの記憶が刻まれている。音楽も、反戦平和のフォークソングが流行し、映画も大島渚監督らのヌーベルバーグ派の反社会的な映画が注目を集めた。いまよりは数段、世の中は重層的に動いていたと言える。特に若者を中心に反骨精神、パワーがあった。藤さんは、そんな明暗織り成す世の中に咲いた一輪の徒花でもあったか。日陰の花は、強い日差しに当たるとしぼんでしまう。彼女の自殺の理由は分からないが、おそらく「自分の居場所」を見失ったのだろう。ある意味、市ヶ谷駐屯地に乱入し割腹自殺を図った三島由紀夫と底辺においてどこか繋がっている、どうもそんな気がするのである。合掌。2013.9.20UP

 

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モノの時代

家の中を見渡しても、モノ、モノで溢れている。大きいものではタンス、座卓、ソファー、テーブル、食器棚、サイドボード、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、ベッドなど、中、小を加えると、数え切れない。これ全て、歯ブラシ、鉛筆1本に至るまでタダのものはない。みんな買い揃えたものである。我ながら感心する。買うには、選ぶ、判断する、決断するという過程が大なり小なり含まれる。それだけ、現代人の時間も脳も、モノを買うために費されていることになる。昭和の昔はどうだったか?。家で目立つものと言えば、タンス、それも代々受け継いだものが大半で、ちゃぶ台、食器棚、畳の上の座布団、電化製品といえばラジオぐらいか。寝具は布団で、起きればたたんで押入れに、掃除も箒とハタキで済ませ、部屋の中はいつもこざっぱりとした感じだった。食料品も決まった店で買うのでどの家も似たり寄ったり。着るものも直しとお下がりが定番だった。明治の思想家・岡倉天心が自著「茶の本」の中で面白いことを書いている。詳しい記述は忘れたが、茶室を例に簡素で何もない空間の大切さを説いていた。空、何もない状態こそ、無尽蔵な有を生ずる源であると。それは精神性を含めてのことであるが、モノに取り囲まれている現代人からすると、その意味が多少分かる気がする。卑近な例で、常に満腹状態では、新たな美味しい食べ物を口にする余裕もなく、思考も運動も鈍ってしまう。その状態が続けば、人間も牛になる()。モノが溢れる時代とは、そうゆう要素もあるわけである。それでも、資本主義経済の中に生きている限り、消費は美徳とばかり、新製品が次々編み出され、「買え、買え」と迫ってくる。満足、充足は存在しないかのように目まぐるしく動いている。柄にもなく、人間の進歩、発展はモノだけに還元されるものなのか、という疑念も抱く。少しはペースダウンしてもいいのではないか。アベノミクスに踊らされ、東京五輪招致で大はしゃぎ、その先に一体何があるのだろう。そんな不安を覚えている人もいるはずだ。個人も、社会も、「空」を作ろう。そこに今とは違う価値観、幸福観を取り入れよう。と言いながら、新たにアイパッドを買ってパーソナルにゲームや音楽を楽しんでいる自分は何なのか?。明らかに自己矛盾である(苦笑)2013.9.18UP

 

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東京五輪決定!

東京五輪決定。南米ブエノスアイレスで開かれたIOC(国際五輪委員会)総会で、東京が2020年の開催都市としてマドリード、イスタンブールを押さえ、大差で選ばれた。広い総会会場で行われた東京の最後のプレゼン(売り込み)の様子を、田舎のテレビで観戦(?)した。最初に、皇族の高殿宮妃久子さまが壇上に上がられたのには驚いた。震災復興支援の謝意を流暢なフランス語と英語でスピーチされていたのが強く印象に残った。委員会のメンバーも好印象を持っただろう。全般に安部首相を含めた日本のプレゼンは、自信と誇りに満ち、五輪の将来、スポーツ振興、世界友好、東京の優位さを織り込み、加えて爽やかな情を訴えかけるものであった。口下手の日本人も「やれば、やれるものだな」と感心した。これを見ながら、1964(昭和39)の秋に開かれた東京五輪のことが色々頭に浮かんだ。丁度その年の春に上京した。当時の東京は、五輪前の活気に包まれていたが、そこかしこに昭和の古い面影を色濃く残していた。無論、超高層ビルもなかった。全体に落ち着いた雰囲気で、むしろそれが首都の風格を醸し出していた。開催中は、貧乏学生の身もあって、五輪は他人事のように受け止めていた。印象に残った種目も、最初に金メダルをとった男子重量上げ、鬼の大松監督率いる女子バレー、銅メダルの男子マラソン程度か。メーン会場の国立競技場も、神宮の森に囲まれた大きな野球場という印象で、わずか丹下健三設計の特異なデザインの代々木競技場が目を引いたぐらいか。選手村も確か、米軍の幹部らが使った住居跡を利用したと記憶している。今思えば、割合地味な感じで、外国人も目立って多くはなかった。試みに、当時の物価を調べたら、サラリーマンの初任給が1万円~2万円、電車・地下鉄の最低運賃が10円程度、コーヒー代が80円、カレーライスが60円、封切映画500円とある。東京が劇的な変化を遂げ始めるのは、五輪後であった。今回の五輪招致に関して、様々な意見がある。「東北大地震、原発事故、それどころではないだろう」「開催する資金があれば、復興に回せ」の声も多い。私も、その方に近いが、決定された以上、商業主義に傾く五輪を、五輪精神に立ち戻り、東京五輪以降変わったと言われるような中身のあるスポーツの祭典にして欲しいと願う。2013.9.9UP

 

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テレビドラマ「半沢直樹」

現在TBS系列で放送されている「半沢直樹」が人気を呼んでいる。ここ最近のドラマ部門で最高の平均視聴率を記録したようだ。大筋は、大阪で小さな町工場を営む父親が銀行に融資を申し込むが、冷酷な担当者にすげなく断られ首つり自殺を図った。その現場を目撃した主人公の少年が、復讐のためその銀行に入社し、父親の仇を討つというもののようである。人気を博している理由は、「忠臣蔵」で分かるように日本人が好きな仇討モノと普段ベールに包まれた銀行内部の細やかな様子が、マンガチックにデフォルメされているが、視聴者に興味深く伝わるように組み立てられていることだ。加えて、日本社会にありがちな格差、序列、派閥によるドロドロとした人間関係の葛藤が刺激剤になっている。ドラマの中で、復讐に燃える主人公が血相を変えてよく口にする「倍返しだ!」も、閉塞感に苦しむいまの日本人の感情の捌け口として心地よく響く。仕事柄、色々な銀行員(融資担当)を見てきたが、一様に言えることは、人間味を削いだ仮面を被ったような人が多いということだ。特にバブル崩壊以後はその傾向が1段と強まっている感じだ。主人公がいう「銀行は、単なる金貸しだ!」は、銀行の正体を突くと同時に、銀行の業務は、融資した金がちゃんと利息を付けて返される見込みがあるかの審査も大事だが、数字や条件以外にも働かす広い頭が必要ということである。自殺した父親は自分が作った新しい部品で再起が図れると必死で担当員に食い下がるが、冷たく拒否され望みが絶たれる。思い返せば、戦後日本の復興に大きく貢献した企業の多くは、例えば有名なところでソニー、ホンダも、小さな町工場からスタートした。それをバックで支えたのは優秀な銀行、すなわち血も涙もある金貸しの目利きであった。数字や条件だけでは決して果たし得なかったことだ。自分たちが犯したバブル経済の検証もウヤムヤに、財務省、金融庁の目を恐れ、汲々と自己保身が目立つ今の銀行は、「金貸し」の原点に戻るべきだという主張が、このドラマの底流にあるような気がしてならない。銀行は、経済の血液である金を扱っているという自負心を取り戻すべきだろう。今はただ、「ドラマのTBS」が復活したかなというちょっとした喜びを感じている。2013.9.4UP

 

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尾篭な話でごめんなさい

6年前に大腸がんが見つかり、肛門近くの直腸部分を外科手術で切除した。本来なら、人工肛門を付ける身体障害者になるところだったが、肛門が使えるために、辛うじてそれは避けられた。その代わりとして、排便障害という厄介な症状を請け負うことになった。丸きり排便コントロール出来ないというのではなく、規則正しい排便が難しい、頻便と便秘を繰り返す、便意を催すと堪える時間が短いということである。この大腸がん手術による排便障害に苦しんでいる人は多く、中には家に閉じ篭ってしまう人もいる。トイレがそばにないと不安なのだ。社会復帰しても、例えば、電車に乗っている間中気が落ち着かず、便意を感じると、途中下車して駅のトイレに駆け込むことを繰り返す人もいる。実に不便な健常者なのだ。救済方法としては、便秘薬の力を借りて腸内の便を出し切ることである。そうすれば、2日、長くて3日は、その心配から1時的に逃れることが出来る。私も旅行に行く際は、この便秘薬を使用する。だから、私の旅行は長くて4日まで(苦笑)。ところで、この排便障害は改善するのかであるが、医師の話では、「多少」と素っ気ない。排便をコントロールする直腸の内括約筋を削っているので、根本的には難しいという。再生医療で括約筋を移植すれば可能だろうが、それは当分先の話だ。便通を良くするための食生活の改善と肛門筋を鍛えて我慢する時間を長くするしか方法がないようだ。いまや日本人の2人に1人はがんになる時代(女性は3人に1人の割合)、中でも大腸がんは胃がんに次いで多い。言えることは、がんは早期発見すれば100%近くは助かる病気であり、日常生活において何か異常を感じたら、早目に検査を受けることだ。大腸がんも、早期発見すれば、簡単な内視鏡手術で治すことが出来る。がんも火事と同じで、ボヤの段階で消火すれば、全焼する大事には至らない。大腸がんの場合、便通が滞る、残便感がある、便の色が黒ぽい、たまに血便が混じる、体がだるく疲れ易い、そんな人は、すぐに病院で検査を受けて欲しい。この歳で、既にがんで亡くなった仲間も結構いる。そのほとんどが、がんが発見されたときは手遅れだったケースであったことを述べて置きたい。・・・少しは明るい話もしたいな(寂笑)2013.8.28UP

 

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核戦争は漫画?

動物界において、死ぬまで戦うのは、おそらく人間だけだろう。それは、人間の知能が作り出した道具のせいである。スタンリー・キューブリックの不朽の名作「2001年宇宙の旅」のプロローグでは、水飲み場をめぐるサル同士の争いで、地上に突如現れた謎の物体(モノリス)に触ったサルが、巨体動物の太い骨を武器として使う知恵を授かるという、皮相的なシーンがある。道具を使うことで劣勢から敵を打ち負かし、好きなだけ獲物を獲得でき、それまでの飢えと脅えから抜け出すことが出来たという成功体験である。すなわち、道具は力、豊かさ、幸せをもたらすという方程式が、人間の先祖の頭脳にインプットされたという意味付けである。そして、サルから進化した人間は、更なる武器の道具として、ハンマー、刀、槍、弓、鉄砲、爆弾、ついには最終兵器である原子爆弾まで作り上げてしまった。その進歩の構図は、全く笑えない喜劇である。万物の霊長・ホモサピエンスが、知能がある故に、自らの手で地獄のマンホールを用意したからである。核ミサイルのボタンを押すだけで、地上から人間の姿は消えてしまう。しかし、人間はもはやサルには戻れない。また核廃絶をいくら叫んでも、核保有国の耳には騒音としか響かないだろう。むしろ、自分たちの優位性を感じさせるだけである。もし、狂った独裁者が現れたら、ジ・エンドである。いまや、小松左京の核戦争の恐怖を描いた「復活の日」は、現実味を増している。そのギリギリの緊張感の中で、世界は動き、人間の生活が営まれている。核には核をという考え方もあるが、それは単に地獄のマンホールの口を広げるしかない。後は、完璧な防御システムを作るしか方法がないと思われる。ハードとソフトの両面の精度を図る必要がある。発射情報を素早くキャッチして、それを封じ込めてしまう。発射しても自国の上空で爆発させてしまう戦法である。要は、核兵器を100%使えないようにしてゴミ化するのが狙いである。使えない道具と分かれば、多大な犠牲を払って、膨大な予算を使って核兵器を作る国はなくなるだろう。人間の知能は、道具を作ることと同時に、道具を壊す、廃棄する、使用をロックする方法にも大いに使われるべきである。唯一の被爆国で核を持たない日本は、アメリカ頼りにせず、自国でも防御システムの開発、研究をすべきである。その資格と能力はあるだろう。人間の行動は信じられないが、道具、方法は裏切らない(上の映画の中のコンピューターHALは裏切るが)。もっと言えば、人間の進歩とは、道具の発明に他ならない。核戦争は人間が描き出した漫画であったと笑える日が来ることを願っている。2013.8.22UP

 

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アメリカについて

アメリカ(USA)に対する思いは複層的である。「もし、アメリカという国がなかったら?」という仮説を思い浮かべる。その前に、私が抱くアメリカのイメージを述べる。子供時分、近くに米軍基地があった関係で、アメリカと言えば戦争、軍事力がインプットされている。成長につれて、音楽、映画、ファッション、娯楽、スポーツ、食品、自動車、電化製品などの華やかなアメリカ文化の流入で、「世界一富める国」と言う憧れを否応もなく植え付けられた。また、ドボルザークの「新世界」が奏でる新鮮で荘厳な深みから、何でも飲み込んでしまうブラックホールのような奇想も抱く。実際、優秀な科学者から有能なスポーツ選手、アクター、安い労働力の担い手など、国益に適うものなら何でも受け入れてしまう。それが、アメリカの躍進を生み出している。言い換えれば、今も移民たちが作り上げる壮大な実験国家と言える。行動原理は、自由、競争、進歩、成功である。全てのエネルギーは、それに費やされる。振り出しに戻れば、今の地球上のあらゆることは、アメリカの影響なしでは存在しないし、今日のような魅力に富んだ世界は生まれなかった。では世界は、なぜアメリカの発展を許したのか。なぜアメリカはここまでの超大国になれたのか。それは、富と権力だけではない。根底にアメリカのエスタブリシュメントの根っこにあるピューリタニズム、プロテスタンティズムが深く関わっている。そのピュアーな正義感と義務感が、アメリカを動かす原動力になっている。それを世界が期待し、応援したからこそ、アメリカは栄光の道を突進むことが出来た。対照的なのは崩壊した旧ソ連であり、現在の中国である。今後、アメリカが、水と油のような中国を飲み込める日がやって来るのかどうか。そのことは、世界にとって、大きな試金石になる。敷衍すればアメリカが求める世界観は、哲学者へーゲルの唱える「絶対円」の完成である。可能な限り異種、劣性を排除して大きな円を描く、その中心核は当然ながらアメリカという思い込み(思想信条)である。果たして、それが良いか、悪いかは、アメリカに完全に飲み込まれた日本にとって、その選択の余地すらないのが現実である。全ては、日米戦争がもたらした結果である。改めて、歴史における戦争の大きさをしみじみと思う。2013.8.21UP

 

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暑い!

 暑い!、暑過ぎる!。怒っても仕方がないが、どうして毎日、毎日こうも暑いのか。温暖化の影響か、海水温度の影響か、ともかく35度を超す猛暑日の連続は身体に堪える。テレビを付けると、「熱中症に気をつけましょう」の連呼。さすがに今年の夏は、家内もエアコンなしでは眠れないようである。隣室の私は、そのエアコンのブーン、ブーンという音を聞きながら、扇風機。エアコンの機械的な冷気が苦手なのである。結果、汗をかいての寝苦しい夜が続く。「熱中症で亡くなっているかもしれないので、朝方覗いてくれよ」と冗談を言うと、「馬鹿ね」と家内はニガ笑い。いまは1刻も早く涼しい秋が来てくれることを願っている。そんな中、灼熱地獄から逃れて、田舎で過ごした4日間は、まるで天国であった。外の日差しは暑いものの、家の中は28度前後に保たれ凌ぎ易く快適。しかも、涼しい川風が開け放しから絶え間なく流れ込んでくる。「生き返る」とはこのこと。しばし、その心地良さに2人とも放心状態。しかし、田舎はのんびりとさせてはくれない。しばらく居間で涼んでは、草むしり、掃除、芝刈り、ゴミの焼却、庭の手入れ、植木の剪定、除草剤の散布、野菜の水やり、じゃがいも、にんじん、かぼちゃの収穫、堆肥やりと耕作などを合間合間にするから結構忙しい。夏の田舎では、昼食と夕食時の2回のビールが楽しめる。中元にビールを沢山貰うので、家内も大目に見てくれる。汗かいて作業した後のビールの美味い事。これだけで田舎で過ごす価値ありという感じ。「このままひと夏、ここで過ごそうか」「そうね」、でも、仕事の関係でそうもいかないことは分かっている。とりたてのきゅうりを持ってきてくれた近所のお百姓さんが、「どうかね。夜は寒いくらいじゃろう、あはは」と言う。「いつ帰りなさる?」「あす」「そりゃそりゃ」。はい、残念です。田舎で暮らすお百姓さんから見ると、灼熱地獄で暮らす都会の人がさどかし気の毒に見えるのだろう。そう言えば、暑い、暑いと声高に言い始めたのは、都会で暮らす人の割合が増えたこともあるかもしれない。田舎の涼しさは、昔も今も変わらない。扇風機もエアコンも必要のない田舎は、いまも存在する。不思議なようで、当たり前のようで、妙な気分である。2013.8.19UP

 

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寿命について

今年7月の厚生労働省の発表によると、日本人の女性の平均寿命は86.41歳で香港を抜いて再び世界一位、男性も過去最高で79.94歳に延び、世界5位ということである。喜ばしいニュースであるが、いまいち素直に浸れない面がある。今一度、寿命について考える。端的に寿命とは、誕生から死亡までの期間を意味する。寿命の語源を調べたが、明快な答はないようだ。「寿」は老人の姿の象形とか、「命」は「天から命じられたもの」とか、「寿」も「命」も「岩石」のように同じ意味を単に重ねただけという意見もある。しかし、一般的には「寿」とは、めでたいこと、喜ばしいことを意味する。単純に、「寿ぐ(喜ばしい)命」と解釈しても間違いはない。天から授かった命を大切に、精一杯明るく元気に生きる姿と時間を想像する。さて、問題はそこである。今日の目覚しい医学の進歩によって、寿ぐ命の終焉が、人為的にあれこれいじられ、特に終末期医療の場合は人間の尊厳されも打ち砕かれ、「天寿を全うした」とは呼べない事態が増えている。とりわけ日本は、そうゆう状況が多いと感じる。欧米先進国のように、過剰な延命治療は行わず、患者の残された余生のホスピス医療を充実させ、安らかに天国に送る方が、本人にとっても家族にとってもいいのではないか。平均寿命が延びることはいいことだ。しかし、問題はその中身。80歳で惜しまれて逝くのと、意識も感覚もなく植物人間のように100歳まで無理やり生かされるのとどちらがいいか。無理矢理生かされている高齢者が、平均寿命を底上げしていると考えると、割り切れないものがある。更に厳しく言えば、高齢者になればなるほど、医療費などの国庫負担率は上昇する。それは誰が負うのか。そうゆう問題もタブー視しないで考えないといけない。併せて、寿命の持つ意味の重さ、深さをかみ締めるべきだろう。そうすれば、平均寿命よりは健康寿命が大切ということが分かってくる。健康寿命が延びることなら素直に喜べる。巨匠・黒澤明監督の映画「夢」の最後は、村人総出で祭りのように楽しく踊りながら寿命の最後を送る葬儀のシーンで締め括られる。本来、あれが正しい姿ではないか。2013.8.10UP

 

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困ったことに

困ったことに、ネットオークションのパイプに嵌っている。毎日必ず覗いている。前にも書いたが、パイプは不思議な道具である。簡単に言えば、喫煙具であり、古いパイプだと、前に使った人の歯の跡、傷、使用したタバコのタール、カーボン、残り香があり、本当は気持ちの悪いものである。にも拘らず、それを買い求める心理って、何だろう。1つには、その材質の多くがブライヤーという特殊な木から出来ていることもありそうだ。詳しくは知らないが、地中海あたりの山腹に生えるツツジ科の木の根っこ部分を使うらしいが、その年輪が作り出す木目(グレイン)は多種多様で、同じものは1つとしてない。更に、それが職人の技によって色々な形で生み出される。愛好者にとって、それがそそられる理由の一つかもしれない。オークションに出品されるパイプの落札価格も高いものは10万円以上するものもあれば、1000円前後のものもあり、まちまちだ。私がこれまで落札したパイプは3000円から5000円までのものだが、先日は何と11円で落札した。日本製の古いパイプで、ESTERD TWOSTARS Aged Briar」という商品名で、確かに説明写真で見ても、相当に古そうで、マウスピースなどは黄色く変色しており、入札者は私を含めてわずか2人であった。前の人が10円、私がその上の11円、結局それで落札が決まった()。何だか出品者に申し訳なく感じたが、それでも気持ちよく対応してくれた。さて、そのパイプに参加したのは、日本の有名メーカーの柘製作所の初期の作品と思ったこと、変色していてもほぼ無傷に見えたこと、「Aged Briar(最高級のブライヤー)という刻印のせいである。「磨けば光る」と感じたのである。手にしてみて、やはり良質のブライヤー独特の大理石のように固く引き締まった中に木のもつ柔らかい滋味のようなものが伝わってくる。パイプのデザインも、made in japanらしい優美な繊細さがある。出品者の説明では、父親が骨董屋で高い値段で買い求め、タバコを止めてからも飾って見て楽しんでいたそうだが、その気持何となく分かる。私も、手入れした上で、使うというより飾って楽しもうと思う。11円というのは頭から外して(笑)。2013.8.9UP

 

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家内の留守

家内が1週間ほど遠方に住む息子夫婦の家に手伝いに行き、わが家を留守にした。これまで2,3日の留守は度々あったが、1週間の長さは始めてかな。最初の2,3日はなんとかしのいだが、もう最後の方は半ばギブ・アップ状態であった。ここで余り言いたくはないが、家内のありがたみが骨身に染みたよ。掃除、洗濯、料理、ゴミ出しetc、なんなくこなしていると思われたこれらの家事が、結構大変なことが分かった。独身生活なんて(それも大半は賄い付きの独身寮)、もうとっくに昔のことだし、結婚してからの家事全般はすべて家内におんぶにだっこで、とんだ怠けオヤジになっていることを悟ったよ。この先、万一家内が先に逝くことになれば、オレは日干し上がってミイラになることは目に見えている。「家内を大切にしなければ」と真剣に思ったな。晩飯もね、自分なりにカレー、餃子、チャーハン、野菜炒めなど色々作ってみたが、味はそこそこにしても、ビールが普段より美味くない。あれは何だろうな。ビールは、上げ膳据え膳で飲んでこそ、美味いものと知ったよ。あはは。洗濯物も大雑把に干したから、これを見てお隣さんは「アレレ?」と思ったに違いない。早目に取り込んだらまだナマ乾きのものもあり、仕方なくリビングの長椅子にまた並べて干す始末。いやいや、ほんと、情けない。しかし、その反省も家内が戻ってきた日からどこかに消えた。またも、リビングの椅子にどか〜んと居座る。改めて家内の動きを見ると、ムダがないことに気づく。一連の動作に流れがある。やっぱり慣れなのかな。家内と暮らした40年、その家事力の違いをまざまざと見せ付けられたよ。ひょっとして、男女の平均寿命の差は、この家事イコール運動量のせいかな、なんて手前勝手に思ったりしてね。洗濯場で、「洗濯物ぐらいはオレが干すよ」と言うと、たまげたように家内が「なによ、気持ちが悪い」と言う。それを聞いて何となくほっとする自分は何なのだ。「よし、今晩は外で飯を食おう」というのが精一杯のサービス。が、これも「外より内が美味しいよ」と返され、「うん、そうだな」というオレはもう完全に家内に飼育されていることになるのかな。最近観た宮崎駿監督の新作アニメ映画「風たちぬ」のテーマである「生きねば!」が何となく身にしみる1週間であった。ちょっとオーバーかな。あはは。2013.8.2UP

 

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厄介な中国

アジアの幸運は、中国があるから、逆に、アジアの不運は中国があるから?。良くも悪くも、アジアにとって中国という存在は大きい。幸運は、中国は国が大き過ぎて、しかも複雑な多民族で構成されているので、国をまとめることに精一杯で、他国の干渉まで中々手が回らなかったことだ。そこが、隣国同士で戦争ばかり繰り返してきたヨーロッパと違う。過去の歴史においても、日本が中国から直接攻撃を受けたのはいわゆる蒙古襲来と呼ばれる鎌倉時代の「文永の役」(1274)と「弘安の役」(1281)のわずか2回だ。それも神風(台風)の助けによって難を防ぎ切ることが出来た。結果、日本は有史以来の天皇を中心とした独自の国のスタイルを確立し、継続出来た。更には、「文明の衝突」の著者ハンチントン(米国の政治学者)が明記した「日本文明」と呼ばれる孤立的な文化的土壌も作り上げることが出来た。これも、国滅び、国興るの易姓革命を繰り返す一貫性のない中国という国柄の弱点があったからこそである。しかし、その中国も時折、狂い咲くように中華思想を露に野望を剥き出しにすることがある。現在の中国共産党政権もそうである。大国意識を剥き出しに、武力で周辺諸国を脅かし、自分たちの配下に置こうとする姿勢が見え見えだ。時代錯誤もいいところであるが、困ったことに、本人たちは本気である。もともと中華思想は過大妄想に過ぎない。1種の病気だ。経済関係という甘い蜜とチャイナリスクを警戒して、あからさまな中国非難は起きていないが、内心どの国も中国の横暴に対して強い危惧の念を抱いている。特にアメリカを中心とした環太平洋の自由主義国はそうだ。安部晋三首相が、アジア諸国を歴訪して、中国の警戒を説いて回っているのも正当な行動である。しかし、妄想に取りつかれた中国共産党の首脳部の頭を正常値に戻すことは容易ではない。清王朝の崩壊と同じように、国内の腐敗、格差、衰退、混乱によって自滅を待つしかないか。現在、中国では、毎日のように反政府デモが起きているという。政府がやっきになって抑えているようだが、その臨界点に達した時、中国共産党政権は、崩壊するのではないか。それは、香港、上海などの自由と人権を求める気運が強い都市、あるいは発展から取り残された貧困層のうごめく農村部辺りが起爆剤になるのではないか。私如きが言うのもなんだが、その可能性は決して小さくはないと感じている。前も言ったように、中国という国は、時代ごとの権力者の栄枯盛衰により国柄をがらっと変えて(リセット)悠久の歴史を刻んできた国だからだ。それに、修正を加えているにしても、1党独裁を柱とする共産主義とは、20世紀が生んだ大きな矛盾(病理)を孕んだ遺物だから、それが長続きするとは到底思わない。いずれにしても厄介な国である。2013.7.28UP

 

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肝試し

夏休みになると、子ども時代の肝(キモ)試しの遊びを思い出す。近所の子どもが集って、誰が1番肝がでかいかを競うのである。橋の欄干から川に飛び込む、沖合いの波止まで激しい潮流時に泳いで渡り切る、岸壁に繋がれた2,3艘の漁船の下を潜って抜ける、深い海底の石を掴んで上がる、火の玉が出ると噂される夜の墓場を一周して戻ってくるなど枚挙にいとまがない。あるいは、当時の大人たちは子どもたちを怖がらせることを好んでした記憶がある。夏の夜には、商店街の通りには夕涼み用の縁台が並べられ、お年寄りたちが子どもを集め、怪談話をよくしたものだ。怖くて逃げ出す子どももいたが、大半は恐々面白がって聞いたものである。夏祭りでは、お化け屋敷は定番であったし、野外映画も「四谷怪談」などの怖い映画が多かった。もっとも、その時のトラウマで、お化けは今も苦手である。しかし、大人のあの試みは、一体何だったのだろう。肝試し以外にも、子どもたちに怖いことを教えることで、人の世のあり方、生き方、不条理、恨み辛み、因果応報、現世と来世、更には宗教心の発芽も考えに入れたものかもしれない。ともあれ、楽しい夏休みは、一方において、怖さを色々経験して、また一歩大人に成長する、そんな期間でもあったように思う。大人になって、そんな子ども時代の肝試しや怖い話が多少とも役立ったという思いはある。少々のことは動じない、自己の判断、決断、勇気の大切さなど。先日NHKのBS放送で岐阜県の郡上八幡の子どもたちの懐かしい遊びの様子を取り上げていた。中で、高い橋の欄干から川に飛び込む肝試しをしているのを見て、「いまもやっているんだな」と嬉しく感じた。怖くてなかなか実行できない小学4,5年の少年が、低い岩場で何度も練習をして、ついに勇気を振り絞って橋の欄干から飛び下り、見事成功した。その時の少年の満面の笑みは、見る者の心を打った。おそらく少年にとっても一生忘れ得ない思い出になったことだろう。ふと、名写真家の土門拳のセリフを思い出した。あれほど子ども好きだった土門がある時から子どもの写真を全く撮らなくなった。その理由は、子どもの表情が乏しくなったからだ、という。それは何となく分かる気がする。夏休みは、テレビゲームでは決して味わえない実体験の遊びを通して、1歩、1歩賢く、逞しく成長して欲しいと願う。2013.7.26UP

 

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参議院について

今度の参院選も、投票に行こうか行くまいか迷った。特別入れたい候補者も見当たらない。ただ、安部政権で生まれた明るい兆しに水を差したくなかったことと、無能をさらけ出した民主党の息を止めたいという思いから、重い腰を上げた。もともと、「参議院は必要か?」という疑念を抱き続けている。いや、政治の健全化、効率化にとって邪魔な存在と感じている。議員の任期が6年というのも間が抜けているし、テレビやマスコミでちょっと顔が売れているだけのズブな素人が当選するという質の見劣りもする。辛口に申せば、日本における参議院の存在自体が既得権の巣窟に見える。詳しい経緯は知らないが、戦後体制を作るとき、当時のGHQ(連合軍最高司令部)の草案では、「日本は規模からして1院制が望ましい」というものだったものが、戦前の貴族院を残したいという日本側の意向を汲んで、両院制が継続されたらしい。その貴族院も、無謀な戦争拡大、軍部の暴走を食い止める役目は果たさなかった。世に既得権ほど浅ましくしぶといものはないと言うべきか。現在世界で両院制と一院制の数はほぼ拮抗していているが、流れ的には1院制の採用並び変更の方向に進んでいるように見える。両院制の代表格と言えば、英国と米国だろう。しかし、これも、日本の参議院と比較すれば、その権威というか影響力には雲泥の差がある。英国での貴族院、米国での上院ともに立派に調整力、抑止力の機能を果たしている。合わせて国民の信頼も厚い。これは誕生した歴史的経緯や国民性から来るもので、単に制度を模倣した日本とでは当然違いが生じても仕方がない。日本の場合、参議院が政治の表舞台に立って効果的に働いたという記憶は余りない。あるのは捻れと遅滞である。いまや衆議院の二軍のような参議院に、国民は多額の税金を投与し続けている。今日本において、時代に適合した合理化、スリム化が一番遅れているのが政治体制と言えるのではないか。結果、官僚に振り回され、改革は先送り、憲法も修正できず、外国からは舐められるという体たらくな政治状況を飽きもせず続けている。再び、参議院の是非及び改革についての議論を喚起したいと思う。2013.7.25UP

 

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全英オープン

先日名門ミュアフィールドで開かれた第142回全英オープンは、日本から出場した期待の新人・松山英樹の活躍もあり、予選から決勝までテレビ中継を観戦した。結果、松山は6位タイの好成績を収め、日本のファンを大いに喜ばしてくれた。ところで、決勝ラウンドの3日目に松山は不幸なアクシデントに見舞われた。松山の遅延プレー(15分程度の遅れか)に対して、競技委員からワンストロークの罰が科せられたのだ。その前に1度注意を受け、動揺したのか次のホールのティーショットを大きく曲げ、そのボールがギャラリー(日本人?)の背中に当った。ギャラリーにお詫びしてすぐ次のプレーに入れば良かったのだが、そのギャラリーと言葉を交わし、自分のグローブにサインまでして渡した。そこで再びタイムロスが生じた結果、罰の判定が下されたのだ。テレビ画面で見ても、松山の行動は致し方がないように見えたが、ゲームの進行を最優先する競技委員は容赦しなかった。これを見て、「厳しすぎる」と思う反面、「いかにも英国らしい」と感じた。英国は、ルールに重きを置く原理主義の国なのだ。ルールに従わなければ、国王だって抹殺するという国柄である。見方を変えれば、だから英国はいまも世界から尊敬され続けている要因でもある。言うまでもなく、ルールの厳しいスポーツであるゴルフは、英国で誕生した。ゴルフにしろ、ルールを曲げることは、英国と言う国のスティタスを消し去ることに繋がるのである。そして、その英国と対極にあるのが中国という訳だ。英国と中国は水と油である。ともあれ、将来有望な松山にとって、いい経験になったと思う。ただ残念だったことは、松山に限らず日本選手の多くは、英会話が苦手ということだ。競技委員の判定に対して、自らの立場を主張するだけの会話技術があれば、もうワンチャンス与えてもらえたかもしれない。ルールを重んずると同時に、相手の抗弁権も認めるのが英国流だからである。このことは、ゴルフ界に限らず、世界における日本の大いなる弱点でもある。最後に、松山は前日の不幸なアクシデントにめげず、最終日には自分の力をフルに発揮し、世界の大物プレイヤーにも負けないプレーをして、ベストテン入りを果たし、来年の出場権も手にした。石川遼ともども日本のゴルフ界に大きな希望をもたらしてくれる選手である事は間違いない。2013.7.24UP

 

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満たされて無個性に

昭和を美化しすぎるのも何ですが、昭和の良さとは、簡単に言えば、見るもの、聞くもの、触るもの全て新しく、その感動を全員で共有出来たことではないでしょうかね。今のように、生まれた時から何でも揃っていては、それは生まれようもありません。指向性として個が個に埋没するのも、仕方がないことかもしれません。しかし引いた目で見ますと、そこから大きなエネルギーを要する芸術、文化、科学は生まれにくい気がします。個の埋没による無関係、無関心、無感動は非生産性に通ずるからです。最近よく目にする、会話もなく、互いに手にした携帯、スマホに熱中する若者の姿からは、刹那で狭量なコミニケーションや享楽は得ても、共感を呼ぶ大きなウェーブは起きそうもありません。計算高い大人たちが作為的にウェーブを起こそうと躍起になっていますが、それも限られた世界にしか通用しません。今後もそうゆう互いに距離を置いた冷めた時代が続くのでしょうか。それが、発展、豊かさ、個人主義の代償とすれば、ちょっと割り切れない気がしないでもありません。さりとて昔の何もない時代に戻れと言われれば、これも勘弁願いたい ()。いまは、何やかや言っても、いい時代です。いや、この半世紀は日本の歴史にとっても、1番平和で恵まれた時代ではないですか。その認識というか自信と幸福を共有できれば、そこからまた新しい芸術、文化、科学が生まれるのではないですか。それを期待しますね。話は変わりますが、それと同じような視点で、今の日本の風景を眺めてみますと、そこにもやはり味気ない無個性の世界が広がっています。明治の著名な地理学者の志賀重昴は、「風景は、民族の目鼻立ちである」と「日本風景論」の中で述べています。風景とは、国の品格、文化、教養を映すものだと言っている。志賀が今の変貌した日本を見たら何と言うでしょう。地方においてもリトル東京化が著しく、ビルやコンクリート、不細工な看板や自販機、コンビニや大型商業施設が目立ちます。テレビで外人観光客の一人が「日本はどこも似たようで、魅力に欠ける」と語っていたが、これが本当でしょう。中世の建物や街並み、美しい自然を自分たちの誇りとして大切に守り続けるヨーロッパとはえらい違いです。日本は、一体誰のものか。どこに進もうとしているのか。どうも、金銭や発展や流行に目を奪われ、国全体がデラシネ(根無し草)になっているように気がします。今一度、美しい国土と美観を取り戻す気概と知恵が欲しい。またそれが、新たなウェーブを引き起こす起爆剤にもなると思う。そうだ、今度、北陸金沢・五箇山・白川郷・琵琶湖周辺を旅してみようか。2013.7.19UP

 

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左の写真の水槽のメダカ、見えますか?。見えませんよね。肉眼で、さらっと見ても見えません。目を凝らして見てはじめて、やっと1ミリほどのメダカの赤ちゃんが動いているのが分かるのです。それも黒ぽい目があるからやっと分かる程度です。水槽に入れた卵から次々に生まれているようです。粉の餌を撒くと、活発に動いてかわいいですよ。こんな極小の生き物にも、脳があり、骨があり、心臓や胃や、肛門だってあるのですから、不思議です。それに、すでに赤ちゃん同士の間にも序列のようなものがあり、強いメダカ、弱いメダカがいるのが分かります。大体においてからだの大きい方が強いです。何なんでしょうね、この生物界の法則のようなものは。大きいから強いのか、強いから大きいのか、よく分かりません。ただ、メダカの親から卵、赤ちゃん、子ども、そして親の比較的に短いサイクルを見ていますと、命は一つじゃない、長く繋がっているということを感じます。人間は命、命とやたら騒ぎますが、それは個人の持ち物として意識し過ぎるからではないでしょうか。もっと言いますとね、人間の細胞は60兆個あると一般的には言われていますが、その細胞の元は原子(詳しくは陽子、電子、中性子から原子ですが)で出来ています。量子学的には、人間も宇宙の一部な訳で、ビッグバン(大爆発)によって宇宙が誕生してから138億年以来、人間もその産物なんですね。宇宙が存在する限り、膨張続ける限り、原子は不滅です。人間を物質の個体と見れば、消滅しますが、それも人間世界の三次元の発見に過ぎず、多次元で見ることが出来れば、また命も違ったかたちで見えるかもしれません。ちょっと危ないですね、この話(笑)。でも、そんなこんだで、メダカを見えていますと、命、人間、宇宙という大きな想像の世界に誘ってくれます。ある意味、すごい生き物です。おそらく、メダカを飼う人が増えているのは、かわいさ、飼いやすさもあるでしょうが、あのミジンコと同様、そんな不思議な魅力がこの魚にあるからなんでしょうね。ああっ、ちょっと目を離した間に、また赤ちゃんが増えていますよ(笑)。2013.7.10UP

 

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日本野球連盟の不祥事

サラリーマンのなりたての頃、酒の席で上司が真顔で言った言葉をいまでも覚えている。「人間は、立場が上になるにつれ馬鹿にならなければいけない」と言うのだ。上が馬鹿のフリをすれば、下の者が自由に動けるから、結果的に組織にプラスになるという意味である。また一つ、これは司馬遼太郎がエッセイで書いた話だが、幕末に欧米視察を終えた勝海舟に、幕府の長老たちが「欧米と日本との一番の違いは何か?」と尋ねると、勝は平然と、「欧米では、優秀な人が上にいます」と皮肉を込めて答える。なぜ2つの話を持ち出したかと言えば、今回の秘密裏に統一球を「飛ぶボール」に変えた日本野球機構(NPB)のニュースを知って、日本の組織は「昔と変わっていない」と感じたからだ。何でも、「今年のボールは飛び過ぎる。おかしい」と不審に感じた選手会の面々がボールを割って調べたら、中の芯のコルクが変えられていたことが判明したという。NPBの幹部らの「野球はホームランが出ないと面白くない」という短絡的な野球観と直接ゲームをする選手に内密で行った傲慢さと姑息さに呆れる。ところで、組織のトップであるコミッショナーは、この事実を知らなかったのか、あるいは知らないフリをしていたのか。どうも後のような気がしてならない。「オレは野球のことは分からない。幹部たちでよきに計らえ」という態度が透けて見える。いずれにしても、コミッショナーが自分の責務を果たさず、無知、無能を世間にさらけ出した事は間違いない。しかしこのような機能不全を感じさせる組織は、NPB以外にも日本ではしばしば見受けられる。多くは役人OBの天下りポストが関わるケースが多い。NPBの現コミッショナーも外務省出身者である。本来は頭脳明晰で辣腕ぶりを発揮した優秀な人物が、なぜ愚鈍に様変わりするのか。理由は2つあると思う。鼻持ちならない特権意識と待遇の甘えと欲である。利益、保身を考え、見て見ぬフリをする、長いものには巻かれろは役人の得意な化け術である。コミッショナーの報酬が月何度か出席するだけで月額200万円とは、一般では考えられない。問題なのは、それによって組織が歪に変化するということ、それによって得する連中が羽振りを利かし、結果的に下が迷惑するということだ。厳しく言えば、日本を壊滅的な敗戦に追い込んだ戦前の軍閥組織、バブル経済の暴走を許し国益を大きく損ねさせた旧大蔵省を核とする官僚組織も同じことが言える。幕末に勝海舟、あるいは福沢諭吉が言ったように、本当に優秀な人材が上に立って、精一杯の力を発揮して国をリードしていかなければ、厳しいグローバル化の波に押し潰されて、日本と言う国は沈んでしまう。国の競争は、いうなれば人間の優秀さの勝負ということを忘れていけない。今回のことは、たかがプロ野球界の一不祥事と見過ごすわけにはいかない。2013.7.8UP

 

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